ずっと出せなかった手紙

人魚姫さま

すっかりご無沙汰している間に随分寒くなってしまいました。こちらの海はハマヒルガオが茶色く枯れあがって、その先のコーラ色をした海と区別がつかないくらい、あたり一面が真っ茶色です。うら寂しいこんな季節でも近くのショッピングモールにはクリスマスが来るようで、その一帯だけ電飾の光がザワザワと打ち寄せては引いて、輝きをおびた夏の波打ち際のようにも見えます。
そちらの海にもクリスマスはやって来ていますか?そしてあなたはお元気でしょうか?あなたの海とあなたのお宅に素晴らしい来年が来ることを願っています。

と、挨拶はこれくらいにさせて下さい。少し混乱しているの。つまり、あなただったらどう考えるか教えてほしいっていうか、そういうのですらなくて、ただ考えがまとまらないことに焦っているだけかも。こういう時には、何て言えばいいのか分からなくて、どう考えればいいか戸惑ってしまっていて。

「笑えばいいと思うよ」なんて碇シンジ君の台詞の引用を返すのは、今日のところはやめてほしいかも。できれば。なぜなら、笑えないから。でも、あなたの言葉で笑いたいって本心もあるけれど。とにかく、教えてほしいの。あなたの言葉で。

大宮の繁華街にあるソープランドで火事があったニュースを知ってる?ニュースを知らないのならヤフーのニュースサイトでも見てみて。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171218-00000046-sph-soci

に書いてあるはず。

こちらのテレビではそのニュースが流れていて、ネットでも騒がれてるみたい。ニュースによると火事で何人か亡くなったみたい。出火原因はまだ分かんないんだって。ソープランドを新しく建て替える時に要求される風営法が厳しすぎて、建物が老朽化しているのに建て替えが遅れたのが被害を拡大させたんじゃないかとか、都市計画の段階で避難経路が狭すぎるんじゃないかとか色々言われていて、まあ起こったことは火事だから、被害が大きくなったり火が出ることの原因って物理的な問題か法律的な問題以外にはありえないのだし、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そう考えるべきだとあたしも思っているのだけれど、どうもシンプルに考えるのが難しくてね。

衝撃的な事件が起きるとその事件で亡くなった人を追悼することがあるけど、そのシーンを見るたびに現実がデロっとめくれるっていうか、現実の世界に裂け目ができて、その裂け目の前でただ立ち尽くすような感覚にならない?ものすごく居心地が悪いけれど、どうしても裂け目の前から立ち去ることができないような感覚に。

次は誰が死ぬと思う?
次死んだ人は追悼されるかな?
でも、次って誰の次で、誰の死は次じゃない死なの?
以前死んだ人って誰で、これから死ぬ人って誰?
誰が死んだ時は次じゃないの?
誰が死んでも次に死ぬ人なの?

これまでもこれからも人は死に続けているけれど、誰もそんな当たり前のことを馬鹿正直に受け止めて、毎日葬式に参列している人なんていないのに。でも、どこかで特定の死者を悼むことがあるし、でも、誰かの死が自分の死を予告されるような気分にもなって、それを感じたら世界がばっくり割れた隙間から、現実が見える気がするの。すごく胸糞の悪い現実が。

形式的にはわかってるはず。概念としては整理できてるの。多分こんな感じ。

人が全ての死者を悼めないという前提から、悼まれる死者と悼まれない死者が存在するのことは、生きるべき価値のあるとみなされる生と生きることが最初からカウントされない生の価値判断を反映している。したがって、人が悼まれる際、悼むという行為の中に既に社会的な価値付けが行われる。人間の死が悼まれる際、次のような場合があるだろう。悼まれる生は立派に死ぬこともあれば、生きるべきではない生が死ぬべくして死ぬこともある。言い換えれば、死んだことを惜しまれつつ悼まれる認め難い死もあれば、悼まれつつ死が歓迎される場合もある。つまり、悼たまれながら死すべき存在の死すべき運命が語られることもあることから、悼まれる生の価値付けが常に肯定的で、悼まれない生が常に否定的な意味として再生産される訳ではない。例えば、独裁者の葬儀は祝祭に、愛国者の殉死についての追悼は身代わりの感謝に、死を悼む行為を行う側の欲望を部分的には翻訳できるかもしれない。
では、死が悼まれない場合はどうだろうか。標準的な生はせいぜい家族・親族の間でしか悼まれない。彼らの死は社会的な意味を持たず、ヒトという種の中の個体の増減や生命のサイクルとしてしかカウントされない。彼らの生きた時間という実存は人類の物語の中で埋葬され、彼らの個別性は永遠に顧みられることはない。悼まれる生が物語に組み込まれ、意味の世界に置かれるのとは対照的に、悼まれない生は物語の要素にすらならず、ただ忘れられていく。
繰り返しになるが、生が悼まれるのは英雄的であろうと悪魔的であろうと物語化される生だけである。したがって、規範から逸脱した存在の衝撃的な生の終焉という悲劇は時として社会的に悼まれる。例えば、ヘイトクライムの被害者は時として悼まれるが、これらはもう二度と同じような種類の人が死んでほしくないという意味でも悼まれるし、そのような種類の人だから死ぬのだという意味でも悼まれる。たとえ善良な人がヘイトクライムの被害者を前者の意図を込めて追悼したとしても、その追悼は死者の死の意味や死者が死ぬことになった必然性を明確にしてしまう。彼は〇〇人だから死ぬことになったのだ、彼女は〇〇をやっていたから死んだのだと。そして、追悼というその行為が表象してしまうアイデンティティと死の必然性の関連は、そのアイデンティティと同一化する人に次の死の予告を与えてしまいもする。
死を悼まなければ死者の実存が回復できず、死を悼めば死者の死の必然性が現れてしまう時、一体、人は誰としてどのように死者を追悼することが可能であるのか?死者のアイデンティティを超えて追悼することは可能か?死者と自分のアイデンティティを語ることなく、死者の死の必然性と彼らのアイデンティティとの関連も、死とアイデンティティの関連と自分の生との繋がりをも語ることなく、誰かの死を追悼することは可能か?誰かのスティグマを強化することなしに、誰かの死を追悼することは可能か?

ざっくり言ってこういうことは、もう分かっているし、形式的には整理がつくのだし、だから、抽象的で思弁的なことをなるべく省略して、スマートに考えた方がいいのは分かってる。建物の構造とか都市計画とか建築するための法律とか、そういうことだけを考える方が健全だと分かってる。単に安全を求めることを望んだ方がいいのも分かってる。どんなところの事故も少ないに越したことはないし、その実現が、もしかしたらその実現だけが、そこで働く人にとってもお客にとっても合理的なこともうんざりするほど分かってる。十分すぎるくらいに分かってるつもりだけど、沈黙することに耐えれなくて、こうやってあなたに聞いてるの。聞いてるっていうより言ってるけどね。

「地球誕生以来活動してきた沢山の生物の死骸の上にあなたの既に立っているのよ」なんて、あなたに言われた気がするけど、仮にそうだとしても、もう二度とその全てが起こって欲しくないなんて願うことは愚かなのかな?あなたのように沈黙のうちに耐えるだけの力が欲しい。あなたのように語ることなく、語られながら生き抜けるだけの枠組みが欲しい。

うーん。多分全部違う。全部なし。この手紙、やっぱりなかったことにして。読まなかったことにしておいて。

じゃあね
また電話する
よいお年を

ヒナコ

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