寄せては返す波の音を聞きながら

「右手をご覧下さい。太平洋が広がっております」

車掌さんのアナウンスが聞こえて、特急くろしおの窓の方に目をやると、一面に広大な海と南国を思わせる強くて高い日差しが目に入ってきました。あたしたちは思わず声を上げて、この旅の幕開けを弁当を片手に祝いました。

という訳で、畏友と南紀白浜に旅行に行ってきました。
軍事基地があり、リッチな外国人観光客であふれ、自民党のポスターが長閑な風景になびく。リゾートには過剰な程の政治性が込められているというのは旅を満喫するための基礎的なリテラシーですが、今回も例外ではなく、ふらふらと海岸を散歩して街並みを見物するだけの無目的な旅行でしたがなんともしみじみとした政治性を堪能して帰ってきました。

オーストラリアから輸入された白い砂の白良浜を抜けて、しばらく歩くと、潰れて取り壊される旅館や昔の建築が表面的な改装を施されたホテルが立ち並ぶ道へ続きます。その道を進めば千畳敷で、修学旅行生や家族連れで賑わっていました。規律化された子供達と規律化される人間を再生産する核家族向けに、ソフトクリームやスナックが近くの休憩所で売られていました。古き良き日本の名残り。規律化された身体を手に入れることが生存に直結した時代のノスタルジーがそこにはあって、片手に歩きながら持っていた番茶味のソフトクリームが強い日差しを浴びてデロっととろける様が、とても美しく、印象的でした。

ソフトクリームが南国の日差しで溶解するように、南紀白浜の核家族向けに仕切られた空間も、グローバルな権力に溶かされるのだと思うと、全く体感のない土地に対する偽造されたノスタルジーに襲われたような気持ちになりますが、きっとその予感は当たるのだと思います。お父さんとお母さんと子供二人を迎えた青い太平洋は、これから誰を迎え、誰の規範性を再生産するのでしょうか。それが単に外国人という枠組みや、家族から切り離されたプレカリアートだというのならきっと幸運で、もしかすると、あの海は観光資源という市場的な意味しか持たなくなって、資本が満ちては引いていく人間抜きの運動の場所でしかなくなるのかもしれません。

お父さんの会社の保養書で息子が夏休みを過ごし、その息子がお父さんのように会社員になっていくリゾート。お父さんが身体化したら規律を、予告のような形で息子に受け渡す場所としてのリゾート。健常者から健常者へ。能力から能力へ。市場価値から市場価値へ。労働力から労働力へ。陰鬱であり、かつ、健全な身体の相続がもうここではなされないのかもしれないと思うと、解放されたような気分になりました。

とはいえ、何から解放されたような気になったのか、自分でもわかりませんが…

あたしたちの泊まった宿は、とてもゆったりとした時間の流れる場所でした。宿に到着して部屋に入り、梅サブレを食べながらお茶を淹れていると、畏友が机の上に置いてあった来客用のファイルをみていました。それを覗き込むと、どうやら、あたしたちが利用しているホテルは障害者雇用で殆どの仕事をまかなっているホテルのようでした。
朝食の時間に遅れそうになれば起こしに来てくれるフロントマンの方。刺青があると申告すれば個別対応してくれるお風呂。お風呂の個別対応の引き継ぎの連絡が少し曖昧なところ。それをもう一度話してお風呂に入る作業。チェッアクト後に居座ったロビーから見える素朴な鉢植えの花々と。ロビーを掃除する人のコントラスト。
そういえば、規律からちょっとだけ離れたことが多かったような気がします。健常者の身体が規律を通じて引き継がれるのとは少し違った具合で、精神障害者歴の浅いあたしもリゾートで何かを相続したような気持ちになりました。誰かから相続するのは、時には悪くはないのかもしれません。

満ちては返す白良浜の波の音と、ぎこちなくて噛み合わないちょっとだけ不満足なシステムは、資本が満ちては返すこのポスト産業主義の時代にも、人間を解放してくれるのかもしれません。

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