アナーキズム、マルクス主義、未来への希望

(http://www.zmag.org/chomsky/interviews/9505-anarchism.html)

First published in Red & Black Revolution No 2 1996

From the All about Anarchism page

ノーム・チョムスキーは米国の海外政策の批判者としてまた言語学者としての彼の仕事で広く知られている。彼が自由意志論的社会主義の目的のために絶えず支援を行っていることはあまり良く知られていない。Red & Black Revolution(以下RBR)によって行われたこの特別インタビューで、チョムスキーはアナーキズムやマルクス主義や現在の社会主義の展望についての彼の見解を示している。このインタビューはケヴィン・ドイルによって19955月に行われた。

RBR: まず最初に、ノーム、あなたは今やかなり長期にわたってアナーキスト思想の擁護者であることになりますね。多くの人達はあなたが1970年に書いたダニエル・ゲランの『アナーキズム』の序文に親しんでいますし、もっと最近では、例えば映画『マニュファクチャリング・コンセント』の中であなたは再びアナーキズムとアナーキスト思想の潜在的力について強調する機会を捉えています。アナーキズムがあなたを惹き付けるものはいったい何なのでしょうか?

チョムスキー: 私は、若い十代の頃に、小さな狭い範囲を超えて世界を考え始めるようになるとすぐに、アナーキズムに惹き付けられました。そしてそれ以後その若い頃の態度を大きく訂正する理由を見出していません。アナーキズムは生活のあらゆる側面での権威や階層組識や支配を捜し出し、見極め、そしてそれらに挑戦する場合にのみ意味がある、と私は考えます。もしそれらに対する正当性を示すことが出来ない場合は、それらは不合理であり、人間の自由の範囲を増大させるために、取り除かれねばならないのです。それは、政治権力、所有者組識、経営陣、男女や親子関係、(私の見解では、環境運動の背後にある基本的な道徳的要請である)未来世代の運命に対する我々の抑制などを含みます。当然ながら、このことは強制と支配を伴う巨大な諸制度に対する挑戦を意味します。すなわち、国家や、国内・国外の大部分を支配している説明責任を負わない専制的巨大私企業などです。しかしそれらばかりではありません。その挑戦は、私が常にアナーキズムの本質と理解しているもの、すなわち、権威に対して立証責任が提起されねばならず、もしその責任が満たされなければその権威は取り除かれねばならない、という確信なのです。時にはその責任は満たされます。もし私が孫たちと散歩をしている時に、彼らが交通量の多い道路へ飛び出そうとした場合、私は権威のみならず身体的強制を使って彼らを止めることでしょう。その行為は挑戦を受けなければなりません。しかしその行為はその挑戦に対する要求を容易に満たすことができると私は考えます。また別の種類の問題もあります。すなわち、人間生活とは複雑な営為であり、我々は人間や社会についてほとんど何も理解しておらず、通常様々な壮大な宣言が恩恵の源泉であるよりは害悪の源泉になっているという問題です。しかしアナーキズムの視点は有効なものであり、長期にわたって我々を導くことが可能であると私は考えます。

そのような一般的見解を超えて、我々は具体的な諸事例を注視し始めるのです。人間の利益や懸念の問題がどこから生じているのかを。

RBR: あなたの考えや批判がこれまでよりもずっと広く知られていることは事実です。またあなたの見解が広く尊敬されていると言わねばなりません。この状況の中で、アナーキズムへのあなたの支援がどのように受け取られているとお考えですか? 特に、初めて政治に関心を持つようになり、あなたの見解に出会ったような人々からのあなたへの反応に私は関心があります。そのような人達はあなたのアナーキズムへの支援に対して驚いていますか、あるいは関心を持っていますか?

チョムスキー: ご承知のように、一般的な知的文化では「アナーキズム」は混沌、暴力、爆弾、破壊などに関連付けて考えられています。そのため、私がアナーキズムについて肯定的に語りその中の優れた伝統に共鳴する時、人々はしばしば驚きます。しかし私の印象では、その暗雲が消え去った時、アナーキズムの基本的見解は一般大衆の間で理に適ったものであると思うのです。もちろん、我々がある特定の問題(例えば、家族の本質や、もっと自由で公正な社会の中で経済が如何に機能することになるかなど)に関心を向けた場合、疑問や議論が生じます。しかしそれはそうあるべきなのです。物理学は水がどのようにして蛇口から水槽に流れるのかに関して正確に説明することができません。我々が「人間性の意味」という遥かに広大で複雑な問題に目を向ける時、我々の理解は大変皮相であるため、理論的な探求や実生活上の探求の可能性に関する、意見の不一致や実験の余地がたくさん存在するのです。そしてそれは我々がさらに多くのことを学習することに役立つためなのです。

RBR: おそらく、他の如何なる思想にも増して、アナーキズムは誤伝の問題に苦しんできました。アナーキズムは多くの人々にとって多くの事柄を意味することが可能です。あなたはあなたがアナーキズムによって意味する事柄を説明する必要性をしばしば感じますか?アナーキズムへの誤伝はあなたを悩ませていますか?

チョムスキー: あらゆる誤伝は妨害です。その多くは理解を妨げることに関心を持つ権力構造に遡ることができます。その理由も全く明らかです。デヴィット・ヒュームの政府の諸原則を思い起こすのが良いでしょう。彼は人々がその支配者に常に服従していることに驚きを表明しています。彼は次のように結論付けています。「力が常に統治される側にあるため、統治者には自らを支援するものが世論しかない。 従って、政府は世論の上に基礎を置くしかないのである。この格言は、最も自由で最も民主的な政府はもちろん、最も独裁的で最も軍事的な政府にも当てはまる」。ヒュームはとても鋭い人です(ついでながら、当時の基準では彼は自由意志論者では全くありません)。彼は明らかに力の有効性を過小評価しています。しかし、彼の観察は基本的には正しく、特に自由が大きい社会の中では、重要であるように私には思えます。そこでは自由であるが故に、世論を操作する技術が遥かに洗練されているからです。誤伝や他の形式のまやかしは当然付随するものなのです。

そこで、誤伝が私を困らせるかと言う質問ですが、もちろんそうです。しかしそれは不快な天気がそうであるのと同様です。それは、権力の中枢が自らを防御するためにある種の世論統制階層を生み出す限り、存在し続けることでしょう。 彼らは通常あまり聡明ではないため、あるいは事実や議論の領域を避けた方が良いと思うくらいは賢いので、誤伝や中傷や他の策略に関心を向けるのです。それらは自分達が権力者達に利用可能な様々な手段によって守られていることを知っている人々には利用可能なものなのです。我々は何故このようなことが起っているのかを理解しなければなりませんし、可能な限り良いやり方でその縺れを解かなければならないのです。それは開放計画の一部なのです(我々自身や他の人々の、あるいはより合理的には、それらの目的を遂行するために協力する人々の開放のためです)。

無邪気に響きますが、事実そうなのです。しかし、そのような不合理や利己的な姿勢が取り除かれた時には、私はそのように無邪気ではない人間生活や社会についての多くの所見を見出さなければならないでしょう。

RBR: もっと確立した左翼団体ではいかがでしょう? そこではアナーキズムが実際に意味する事柄についてもっと良く精通していることが期待できると思うのですが。アナーキズムへのあなたの見解や支援について、ここアイルランドで驚いたことはありませんか?

チョムスキー: あなたの言う「確立した左翼団体」が意味するものを私が理解しているとして、 私のアナーキズムに関する見解に対してそれほど大きな驚きは存在しませんね。なぜなら私の意見はどんなものもほとんど知られていませんので。それらの団体は私が交際している団体ではないですね。私が語ったり書いたりするものの中に具体的名称を見出すことはほとんどないでしょう。もちろん全てではありませんが。例えば米国では(英国やその他ではそれほど普通ではないのですが)「確立した左翼団体」と呼ぶことが可能ないくつかの幾分批評的で独立した部門の中で私が行っていることに精通している人を見出すでしょうね。また私はいろいろな所に個人的な友人や仲間がいます。しかし書籍や雑誌を見て下さい。私が言っている意味が分かりますよ。私は私が書いたり語ったりすることが学部のクラブや論説委員室以上にそれらの団体で歓迎されることを期待していません。もちろん例外はありますけれども。

人々が私の意見に驚くといった問題は周辺的にしか生じません。答えるのが困難な程周辺的なのです。

RBR: 多くの人々はあなたが「自由意志論的社会主義」という言葉を「アナーキズム」とほぼ同じ文脈で使用していることに気付いています。あなたはそれらの言葉が本質的に同様なものと見なしていますか? あなたにとってアナーキズムはある種の社会主義なのでしょうか? 「アナーキズムは自由を伴った社会主義と同意義である」という解説が以前から使用されています。あなたはこの基本的な同等化に同意しますか?

チョムスキー: あなたが言及したゲランの著作への序文は一世紀前のあるアナーキスト支持者の言葉の引用から始まっています。彼は「アナーキズムは広い背中を持っており、どの様なものにも耐える」と言っています。その一つの主要な要素は伝統的に「自由意志論的社会主義」と呼ばれてきたものです。私はこの序文であるいは他の場所でその言葉によって私が意味するものを説明しようと試みました。そしてその見解が決して独創的なものではないことを強調しています。私は私が引用しているアナーキスト運動の指導的人物達からその考えを取り入れているのです。彼らはかなり一貫して自分達を社会主義者であると説明しています。一方彼らは、民衆闘争の経過の中で国家権力を手に入れ、バクーニンが警告した背徳的「赤色官僚」になることを求めていた急進的知識人達から成る「新階級」を厳しく非難しています。アナーキスト達に非難されたその思想が通常「社会主義」と呼ばれているのです。私はルドルフ・ロッカーの見識に大部分賛同しています。彼はアナーキズムのその様な(まさに中核的な)傾向が啓蒙主義や古典的自由主義の最良の部分から引き出されたものであると考えています。実は彼が述べたよりももっと遡るのですが。事実、私が示そうとしたように、アナーキスト思想はマルクス・レーニン主義の教義や実践、米国や英国で流行している「自由意志論的」教義や他の現代のイデオロギーとは鋭く対照をなしているのです。それらの思想は全て、しばしば現実的な暴政である不合理な権威への様々な形の支持思想に変節してしまっているように私には思われます。

RBR: 過去において、あなたがアナーキズムについて語る時には、あなたはしばしばスペイン革命の実例を強調していますね。あなたにとってこの実例には二つの側面があるように思えます。一方で、スペイン革命の経験は「アナーキズムの実行」の良い例であるとあなたは語っています。また一方で、あなたは、スペイン革命は労働者達が参加的民主主義を使用しながら自らの努力を通して実現されるものを示す良い例である、とも強調しています。それら二つの側面、アナーキズムの実行と参加的民主主義は、あなたにとってまったく同一のものなのですか?アナーキズムは民衆の権力のための哲学なのでしょうか?

チョムスキー: 私は「哲学(philosophy)」のような装飾的多音節語を日常的な普通の意味に思われる事柄を指示するために使用することに躊躇を憶えます。また私は様々なスローガンには心地良くないものを感じています。スペイン革命が潰されてしまう前に、スペインの労働者や農民が達成したものはいろいろな点で印象的なものでした。「参加的民主主義」という用語はもっと最近のものであり、異なった文脈の中で発達したものです。しかし、確かに多くの類似点がありますね。次のように言うことが責任回避のように思えるとすれば残念なのですが、そうなるでしょうね。というのも、アナーキズムの概念も参加的民主主義の概念も共にそれらが同一であるかどうかという疑問に答えることが出来る程十分に明確ではないと私は考えるからなのです。

RBR: スペイン革命で達成された主なものの一つはある程度の草の根の民主主義が確立されたことにありました。人々の数から言えば、300万以上の人々が関わっていたと見積もられています。田舎での生産や都会での生産が労働者自身によって運営されていました。あなたの意見では、それは個人の自由の唱導者として知られるアナーキスト達が集合的行政の領域の中で成功した偶然の一致の事例なのでしょうか?

チョムスキー: 偶然の一致では全くありません。私が常に最も説得的と考えるアナーキズムの傾向は高度に組織化された社会を求めています。それは多くの異なった種類の組識(仕事場や共同体や多方面にわたる他の形式の自発的連合)を統合しますが、参加者達によって管理されているのであり、命令を与える地位にある者によって支配されているのではありません(時々あるように、特定の不測の事態の中で、権威が正当化され得る場合は除かれますが)。

RBR: アナーキスト達は草の根の民主主義を築き上げるためにしばしば多大な努力を傾けています。実際に、彼らはしばしば「民主主義の極端な実行」として非難されています。しかし、それにもかかわらず、多くのアナーキストは民主主義をアナーキスト思想の中心的構成要素であるとは容易に認めようとしません。アナーキスト達はしばしば自分達の政治運動を「社会主義」に関するものであるとか「個人主義」に関するものであると説明しています。彼らはアナーキズムが民主主義に関するものであると述べる可能性は少ないのです。あなたは民主主義的思想がアナーキズムの中心的要素であることに同意しますか?

チョムスキー: アナーキスト達の「民主主義」への批判はしばしば議会制民主主義への批判ですね。議会制民主主義が非常に抑圧的な要素を伴った社会の中で生じてきたためです。その起源以来最も自由であった、米国を例に取りましょう。米国の民主主義は、1787年の憲法制定会議でジェームス・マディソンによって強調された、政府の基本的な機能は「裕福な少数者を大多数の者から守るため」に存在する、という原理の上に創設されたのです。従って、彼は、当時の唯一の疑似民主主義の模範であったイングランドで、もし一般大衆が公的問題に発言することが許されるならば、彼らは農地改革などの暴挙を実行しようとするだろう、と警告しています。また、財産権は防御されなければ(実際は優勢でなければ)ならないのだから、米国の体制は「財産に関する諸権利」に反するそのような犯罪を避けるように注意深く考案されなければならない、とも警告しているのです。このような枠組みの中での議会制民主主義は真の自由意志論者による鋭い批判を受けるに値するでしょう。しかも私はここでは他の多くの全く明白な抑圧的要素を除外しています。一つ例を出せば、「奴隷制」です。また「賃金奴隷制」もそうでしょう。それは19世紀を通してそれ以降もアナーキズムや共産主義については全く何も知らなかった労働者達によって激しく非難されていたのです。

RBR: 社会の中での何らかの有意義な変化にとって草の根の民主主義の重要性は自明のことのように思われます。しかし左翼は過去においてこの事に関し曖昧でした。私は一般的な言い方をしていますが、社会民主主義やボルシェヴィズムについて言っているのです。つまり厳密な民主主義的実践よりもエリート主義者の思想に共通しているように思われる左翼の伝統です。良く知られている例を出せば、レーニンは労働者達が「職業組合意識」以上のものを発展させる可能性について懐疑的でした。彼は「職業組合意識」という言葉で、労働者達が直接的な苦境以上のことを理解することができないこと意味していた、と私は推測しています。同様に、フェビアン社会主義者でイングランドの労働党に非常に影響力のあった、ベアトリス・ウェッブは労働者達が「競馬の勝算」にしか関心がないという見解を持っていました。このエリート主義はどこから始まったのでしょうか? また、それは左翼に何を行っているのでしょうか?

チョムスキー: 残念ながら私がその問題に答えるのは困難ですね。もし左翼が「ボルシェヴィズム」を含んで理解されているとするなら、私はきっぱりと左翼との関係を絶ちますね。私の意見では、レーニンは社会主義の最大の敵の一人だったのです。理由は既に論じました。労働者達が競馬にしか興味がないなどという考えは、労働史や活気に満ちた独立的労働階級の新聞をちょっとでも見たならば、耐え難いばかげた考えです。その新聞は、私が今書いている場所から数マイルのニューイングランドの工場の町を含めて、多くの場所で盛んに発行されていました。歴史を通してまさに今日に至るまで、迫害され抑圧されてきた人々の勇気に満ちた闘争の勇ましい記録は言うまでもありません。西半球の中で最も不幸な場所であるハイチを例に取りましょう。そこはヨーロッパ人征服者によって楽園と見なされ、ヨーロッパの富のかなりの部分の源泉と見なされていましたが、現在は破壊され、おそらく回復することはないでしょう。ここ数年において、富裕国の誰もが想像することが出来ない程の悲惨な状況下において、農民達とスラム居住者達は草の根の組識を基礎にして民衆的民主主義運動を構築しました。それは私が知る他の場所の如何なるものをも凌駕するものでした。つまり、ハイチ問題に深く関わった世論統制階層は、米国がハイチ人達に民主主義の教訓を如何に教え込まねばならないかというアメリカ人知識階層や政治指導者達の壮大な宣言を聞いた時、嘲笑と共に崩壊させることを諦めるしかなかったのです。ハイチの民衆が成し遂げたことは非常に実質的で権力者達を脅かすものであったため、その民衆達は、米国からの公的に認められているよりもかなり多くの援助という別の悪質なテロの対象にならねばなりませんでした。そして彼らはいまだ降伏していないのですよ。彼らが競馬にしか興味がないと言うのですか?

私は度々引用するルソーからの一節を提示したいです。「多数の全裸の野蛮人がヨーロッパ人の享楽的態度を軽蔑し、自らの独立を保つためにのみ、飢えと炎と武力と死に耐えているのを見る時、私は奴隷達に自由を説くのはふさわしくないと感じる」。

RBR: 再び一般的に言えば、あなたの著書、Deterring DemocracyNecessary Illusion等では、我々自身の社会の中でのエリート主義思想の役割と流布についての問題が一貫して扱われています。あなたは、「西洋」(あるいは議会制)民主主義の中には大衆のなんらかの現実的役割や大衆からの意見の投入に対しての深い敵意が存在し、それは富裕層に利するための富の不平等な配分が脅かされることがないためにである、と論じています。あなたの著作はここアイルランドでは非常に説得力を持っています。しかし、それは別にして、ある人はあなたの主張に衝撃を受けています。例えば、あなたはジョン・F・ケネディー大統領とレーニンとを比較し、二人を同等と見なしています。この見解は両者の支持者に衝撃を与えたと付け加えることが出来ます。この比較を妥当性についてすこし詳細に述べてもらえますか?

チョムスキー: 私はケネディー政権の自由主義知識人の教義とレーニン主義とを実際に「同等」と見なした訳ではなく、著しい類似点を指摘したに過ぎません。むしろバクーニンが一世紀前に「新階級」についての彼の鋭い論評の中で予言したやり方のようにです。例えば、私はロバート・マクナマラの文章の中からの一節を引用しました。そこで彼は、もし我々が真に「自由」であろうとするなら管理的支配を増大する必要があると主張し、また「民主主義への真の脅威」である「不十分な管理」が如何に理性そのものへの攻撃であるのかについて語っています。その一節の数語を変えれば、標準的なレーニン主義の教義になります。私は、その両者の事例の中で、それらの起源がかなり根深いということを論じました。人々が何について「衝撃」を受けたのかについてもっと明確に示されない限り、私はこれ以上論ずることができません。私が行った比較は具体的なものです。私はそれが適切であると思いますし、適切に限定されていると考えます。そうでなければ、それは誤りです。私は誤りについて教示されることには大いに関心がありますよ。

RBR: 厳密に言えば、レーニン主義はウラジミール・イリイチ・レーニンと共に発達したマルクス主義の一つの形式を指してします。あなたが「レーニン主義」という言葉を使用する際に、あなたはマルクスの著作とあなたがレーニンに抱く特定の批判を暗黙の内に区別していますか? あなたはマルクスの見解と後のレーニンの実践の間に連続性を見ていますか?

チョムスキー:「赤色官僚」が「あらゆる独裁的政府の中で最悪のものを実施することになる」というバクーニンの警告はレーニンの遥か以前のものですし、マルクスの信奉者達に向けられていました。実際には、多くの異なった信奉者が存在しました。アントン・パネクーク、ローザ・ルクセンブルグ、ポール・マテックなどはレーニンとはかなり異なっています。彼らの見解はしばしばアナルコサンディカニズムの諸要素に収斂します。カール・コルシュなどは実際にスペインのアナーキスト革命について共感を持って書いていました。マルクスからレーニンへの連続性は存在しますが、レーニンやボルシェヴィズムに対して厳しく批判的なマルクス主義者への連続性も存在します。マルクスの農民革命に対する晩年の態度についてのテオドール・シャニンの何年か前の著作もここで関連するでしょう。私はマルクスの専門的研究者とは程遠い存在ですし、その疑問についての答えがあり得るとしても、その連続性の中のどれが「真のマルクス」を反映しているのかについてあえて真剣な判断を下そうとも思いません。

RBR: 最近になって、我々は(米国のDiscussion Bulletinにより昨年再版された)あなたの論考Notes on Anarchismの一冊を入手しました。この中であなたは「初期マルクス」の見解、特に彼の資本主義下の疎外の概念の発達について述べていますね。あなたはマルクスの生涯と著作における次の区別について一般的に同意しますか、つまり、若き日のもっと自由意志論的社会主義者のマルクスと晩年の確固たる権威主義者のマルクスを?

チョムスキー: 初期のマルクスは彼が生きていた環境から広範囲にわたって取り入れています。古典的自由主義、啓蒙思想、フランスやドイツのロマン主義の諸相を活気付けた思想と多くの類似点が見出されます。先ほどの質問への回答と同様に、私は権威主義的な判断を装うほど十分にマルクスの専門家ではありません。私の印象では、妥当かどうか分かりませんが、初期のマルクスは大いに後期啓蒙主義的な人物であり、後期のマルクスは非常に権威主義的な活動家で、資本主義の批判的分析者です。彼は社会主義的代案についてはほとんど何も語っていません。しかし、これらは私の印象ですよ。

RBR: 私の理解では、あなたの全体的な見解の中心部分はあなたの人間性概念に満たされていると思います。過去には、人間性という思想はおそらく逆行的なものと見なされ、また制約的なものとさえ見なされていました。例えば、人間性の変化しない側面はしばしば事態が根本的にアナーキズムの方向へ変化することが出来ない根拠として議論の中に使用されています。あなたは異なった見方をしていますよね?それは何故ですか?

チョムスキー: ある人の見方の中核的部分は、何らかの人間性概念です。それがどんなに認識から程遠く、明確な表現を欠いているとしてもです。少なくとも、このことは自らを道徳的行為者と見なし、極悪人とは見なしていない人には当てはまります。極悪人はさて置き、改革や革命を提唱する人であれ、安定性や過去の段階への回帰を提唱する人であれ、単に自分の庭を耕すことを提唱する人であれ、どんな人でもそれが「人々にとって良い」という基盤の上にそのような立場を取っているのです。しかしその判断は何らかの人間性概念に基づいており、筋の通った人はその判断を出来るだけ明確にしようとするでしょう。そうでありさえすれば、その判断は評価されることが可能となります。それゆえこの点では私は他の人と違いはありません。

人間性が「逆行的」なものとして見なされてきたというあなたの意見は正しいですね。しかしそれは根深い混乱の結果に違いないのです。私の孫娘は岩やサンショウウオや鶏や猿とは何の違いもないのでしょうか?この様な馬鹿げた言動を不合理なものとして捨て去る人は人間特有の性質の存在を認識しているのです。我々は人間特有の性質が何であるのかという問題だけと共に置き去りにされた状態にあるのです。それは、多大な科学的関心と「人間性の意味」を伴った、極めて重要で魅力的な問題です。我々は(主要な「人間性の意味」に関する側面ではありませんが)人間性の特定の側面についてかなりの量のことを知っています。それを超えた領域では、我々は我々の希望や望みや直感や推測にその判断を任されているのです。

人間の胎児は非常に束縛されているため、羽を成長されることがないし、視覚組織が昆虫のようなやり方で機能できません。また鳩のような帰巣本能を欠いています。しかしこの様な事実には「逆行的」なものは何一つありません。ある有機体を束縛しているのと同じ要因はその有機体が豊かで複雑で高度に組織化された構造を獲得することをも可能にしてくれるのです。その構造は同じ種の生物には基本的方法において同様なものであり、豊かで顕著な能力を伴っているのです。そのような限定的で固有な構造はもちろん根本的に発達の道筋を制限しているのですが、その構造を欠いている有機体は、(たとえそれが何らかの方法で生き続けることができたとしても)ある種アメーバのような生物であり、同情されるべきものです。発達の範囲や制約は必然的に関係付けられているのです。

言語を例に取りましょう。それは多くのことが知られている人間固有の能力の一つなのです。我々は、あらゆる可能な人間言語が非常に似通っているということを信じるに足る極めて強力な根拠を有しています。人間を観察している火星人科学者なら、小さな変異を伴ってはいるが、たった一つの言語しか存在しないと結論付けるかも知れません。その理由は言語の成長を基礎付けているある特定の人間性の側面が非常に制限された選択肢しか認めていないからなのです。このことは制約なのでしょうか?もちろんそうです。このことは解放なのでしょうか?同様にそうです。まさにそれらの制約こそが、非常に初歩的で散発的で多様な経験を基礎にして、個々の人間が豊かで精妙な思想表現体系を同様なやり方で発達させることを可能にしてくれるのです。

生物学的に決定されている個々の人間の間の相違の問題についてはどうでしょう? それらが存在することは紛れもない事実ですが、それは恐れや後悔ではなく喜びの原因なのです。クローンに囲まれた人生は生きるに値しないものでしょう。健全な人は自分が共有できない能力を他の人が持っていることをただ嬉しく思うだけでしょう。このことは基本的であるべき事柄です。これらの問題について通常信じられていることは、私の見解では、全く奇妙なものです。

人間性は、それがどの様なものであれ、アナーキスト的生活形式の発展に資するものなのか、あるいは障害なのか? 様々なやり方で答えることができる程、我々は十分認識していないのです。それらは実験と発見を要する問題であり、空虚な宣言ではないのです。

RBR: 時間も残り少なくなってきましたが、左翼の最近の問題についていくつか簡潔にお尋ねしたいのです。米国では状況が同様であるのか分からないのですが、ここアイルランドではソビエト連邦の崩壊に伴って、左翼の中にある種の士気喪失が起こっています。人々はソ連に存在していたものに対してそれほと熱心な支持者ではなかったのですが、ソ連の崩壊に伴って社会主義思想もまた堕落してしまったという一般的感情があります。あなたはこの種の士気喪失に出会っていますか?それに対するあなたの反応はどのようなものですか?

チョムスキー: ソビエト独裁体制の終結に対する私の反応はヒトラーやムッソリーニの敗北に対する私の反応と同様なものでした。あらゆる面において、それは人間精神にとっての勝利です。それは社会主義者達に特に歓迎されるべきものでした。社会主義の巨大な敵が遂に崩壊したのですから。自らを反スターリン主義者や反レーニン主義者と見なしてきた人々を含めて、人々がその独裁体制の崩壊によって意気消沈しているのを見て、あなたと同様に、私も関心をそそられます。そのことが明らかにしてくれるのは彼らが自分で考えるよりももっと深くレーニン主義に傾倒していたということです。

しかし、この凶暴で独裁的な体制の消滅に関して憂慮すべき別の理由があります。この体制は「民主主義者」と同じくらい「社会主義者」にとっても凶暴で独裁的な体制だったのです(ソ連がその両方を主張していたことを思い出して下さい。そして後者の主張が西側で嘲笑されていた一方、前者の主張が社会主義に反対する武器として熱心に受け入れられていたことを思い出して下さい。それは西側知識人の権力への奉仕の多くの例の一つなのです)。一つ目の憂慮すべき理由は冷戦の本質と関連しています。ヨーロッパによる世界の大部分の征服を表わす今日の婉曲語法を使用すれば、私の見解では、冷戦は意義深い程度に「南北摩擦」の特殊事例だったのです。東ヨーロッパはもともと「第三世界」でした。そして1917年以来の冷戦は、独立的道を追求する他の地域の第三世界の試みへの受け止め方とは少しも類似していませんでした。とはいえこの場合は規模の違いがその摩擦にそれ自身の命を与えたのですが。この理由ゆえ、東ヨーロッパ地域がかつての地位に戻ることを期待するのが唯一合理的なものでした。チェコ共和国や西ポーランドのような西に位置する地域は西側に再参加することが期待されることが可能でした。一方他の地域は伝統的な奉仕的役割に逆戻りすることが期待されたのです。そこではかつての特権階級は標準的な第三世界のエリート階層になりました。もちろん、一般的に何らかの代替案よりもかつての特権階級の方を好んでいた、西側の国家・大企業権力の承認を伴っていたのです。それは決してよい展望ではなかったし、多大な苦難をもたらしています。

二つ目の懸念の理由は、戦争抑止や非同盟中立の問題と関わっています。ソビエト帝国はグロテスクなものでしたが、まさにその存在自体が非同盟中立への一定の余地を提供していました。またソビエトは時折、完全に皮肉な動機から、西側の攻撃の犠牲者に支援を提供しました。それらの選択肢は消え去ってしまい、その結果生じた事態に南側は苦しんでいるのです。

三つ目の理由は、実業界の新聞が「豪華な生活様式で甘やかされた西側労働者」と呼んでいる問題に関連しています。東ヨーロッパの大部分がその囲いの中に戻るに伴って、オーナー達や経営者達は自国の労働者階級と貧困層に対する新しい強力な武器を手に入れました。ゼネラルモーターズ社やフォルクスワーゲン社は生産拠点をメキシコやブラジルに移転すること(あるいは、しばしば実質上同じ事を意味するのですが、少なくとも移転すると脅すこと)が出来るだけではなく、ポーランドやハンガリーにも移転することが可能になったのです。彼らはそこで安いコストで熟練し訓練された労働者を見つけ出すことが可能となったのです。いったん支配する価値観が与えられれば、無理もないことですが、彼らはそれを満足そうに眺めているのです。

我々は冷戦(また他のあらゆる紛争)が何であったのかについて、それが終結した後に誰が歓喜し誰が不幸になっているかを注視することによって、多くの事を学ぶことが可能です。 その基準に拠れば、冷戦の勝利者は西側のエリート階層とかつての特権階級であり、今では彼らの最大の熱狂的な夢を超えるほど豊かになっています。そして敗北者は西側の労働者や貧困層と共に東側の大半の住民を含み、さらには独立の道を模索していた南側の民衆層をも含んでいるのです。

このような認識は西側のエリート階層にヒステリーに近いものを呼び起こす傾向があります。それは稀なことなのですが、彼らがこの認識を看取できた場合にはですがね。それを示すことは容易なことです。またそれは無理からぬ事です。この観察は正しいものですし、権力や特権を覆すものなのです。そのためヒステリー状態が起っているのです。

一般的に、誠実な人の冷戦終結への反応は狂暴な独裁体制の崩壊を単純に喜んでいるというよりはもっと複雑なものでしょう。そして、私の見解では、広く行われている反応は極端な欺瞞に満ち溢れているのです。

RBR: 多くの点で、左翼は今日19世紀のその出発点に戻っていることを見出しています。当時と同様に、左翼は現在ある形式の資本主義に直面しており、それが優勢な状態にあります。今日、富の不平等が拡大しているにもかかわらずに、資本主義が可能な経済体制の唯一妥当な形式であるという「共通認識」が、歴史の如何なる時代よりも、大きく存在するように思われます。このような背景に対して、左翼は前進する方向性を見失っていると言うことができます。あなたは現在の時代をどのように見ていますか?それは「基本への回帰」の問題なのでしょうか?左翼の活動は社会主義の中の自由意志論的伝統を発揮する方向に向かうべきなのでしょうか、あるいは民主主義思想を強調する方向に向かうべきなのでしょうか?

チョムスキー: 私の見解では、この「共通認識」は大部分プロパガンダです。「資本主義」と呼ばれているものは基本的には大企業の重商主義体制なのです。それは説明責任をほとんど負わない巨大な専制的私企業が経済・政治体制や社会・文化生活に広大な支配を行使し、国内経済や国際社会に大規模に介入する強力な国家との秘密の協力の中で活動を行っているのです。このことは多くの幻想とは対照的に、米国に劇的に当てはまります。裕福で特権を有する者達は、過去にそうであったような市場淘汰に直面することをもはや望んでいません。とはいえ彼らは一般大衆には市場淘汰が良いものと見なしてはいますがね。ほんの少しだけ実例を示せば、レーガン政権は、自由市場という修辞表現に熱中していましたが、実業界に対しては戦後の米国の歴史の中で最も保護主義的であることを自慢していたのです。事実、他の全ての政権を合わせた以上に保護主義的だったのです。現在の改革運動を指揮するニュート・ギングリッチは、この国の他のどんな地方の地域よりも多額の連邦補助金を、連邦組織の外側で、受け取っている地域から選出された人物です。飢えた子供達への学校給食の停止を求めている「保守主義者達」はペンタゴンへの予算の増額をも要求しているのです。ペンタゴンは1940年代の後半に現在の形式に確立されたのですが、その理由は(実業新聞が親切にも我々に伝えてくれているのですが)ハイテク産業が「純粋な、競争的な、補助金の無い『自由企業』経済」の中では生き残ることができないため、政府が「救世主」にならなければなかったからなのです。「救世主」がいなければ、ギングリッチの有権者達は(運が良くても)貧しい労働者になっていることでしょうし、一覧表をあげれば、コンピュータ、一般の電化製品、航空産業、治金業、オートメーション等は存在していなかったでしょう。あらゆる人々の中でもとりわけアナーキストはそれらの伝統的欺瞞に騙されてはならないのです。

自由意志論的社会主義はこれまで以上に妥当な思想なのです。また住民はその思想に対して大きく開かれていますね。大量の大企業のプロパガンダにもかかわらず、教育を受けた階層の外側で、人々は今なお非常に伝統的な態度を維持しているのです。例えば米国では、住民の80パーセント以上が経済制度が「本質的に不公正」であると見なしていますし、「特定の利益」に奉仕し「人々」には奉仕しない政治組織を欺瞞と見なしています。圧倒的多数の住民は働いている人々が公的問題に対して発言権が全く無いと考えています(イングランドでも同様です)。人々の意見とは、政府は困っている人々を支援する責任がある、教育や健康への支出は予算削減や減税よりも優先すべきである、議会を通りつつある現在の共和党の提案は富裕層の利益にはなっても一般大衆の利益にはならない、といったものです。知識階層は全く異なった話をするでしょうが、事実を見出すのはそれほど困難なことではありませんよ。

RBR: ある意味でアナーキスト思想はソビエト連邦の崩壊によって正当性を立証されたと言えます。バクーニンの予測が正しかったことが証明されたわけですから。あなたはアナーキストがこの一般的展開やバクーニンの分析の鋭い感性から活力を得るべきだと思いますか?アナーキストは自らの思想や歴史について大きな確信を持って未来に備えるべきなのでしょうか?

チョムスキー: その答えは私が既に語ったことの中に暗示されていると思いますし、少なくともそう希望します。現在の時代は不吉な兆しと多大な希望の徴候の両面があると思います。どのような結果が起こるかはこの機会に我々が何を作り出すかに掛かっています。

RBR: 最後に、ノーム、全く違う種類の質問なのですが、私達はここアイルランドであなたのためにギネスを一杯注文しています。いつ飲みに来てくれますか?

チョムスキー: ギネスを用意したままにしておいて下さい。それほど先の話ではないと思いますよ。冗談ではなく、可能なら明日にそこにいることになるでしょう。私達は(このような不断の旅行では珍しいのですが、妻が同行しているのです)アイルランドで素晴らしい時を過ごしたことがありましたし、喜んでそこへ伺いたいと思っています。行きますとも。あなた方を卑劣な情勢の詳細を話題にしてうんざりさせるつもりはないのですが、要請は並々ならぬものがありますし、ますます増えているのです。私が語ろうとしてきた状況の反映ですね。

(訳 鎌田幸雄)