[ZNet/Japan]

気高さと連帯
レイチェル・コリーの残したもの

エドワード・サイード
SFDUDE 訳
2003年6月26日付けアルアハーム紙
"The Meaning of Rachel Corrie" Of Dignity and Solidarity

五月初頭、私はシアトルで数日に渡る講義を行っていた。そこにいる間、レイチェル・コリー(1979-2003)の両親、妹と食事をする機会があった。彼等は、まだ、3月16日にガザ地区でイスラエルのブルドーザーによって娘が殺されたことのショックを隠せないでいた。父親のコリー氏自身はかつてブルドーザーを運転したことがあったという。しかし、ラファでパレスチナ人の家を守ろうとした娘を殺した60トンの家を壊す為に作られたブルドーザーにいたっては彼がかつて運転したものより遥かに大きかった。コリー家を訪れることによって2つのことが私を打ちのめした。一つ目は、彼らは死んだ娘の死体とともに米国に帰還したこと。そして即座に合衆国上院議員の、パティー・ミュレーとマリー・カントウエルの両民主党員に会い事情を説明したが、彼等は衝撃を受け憤懣や遺憾に思うと述べ、調査の約束を取り付けたにもかかわらず、調査そのものは全く行われることはなかった。予想がつくように、イスラエル系のロビー活動者たちが現実を彼等に吹き込み、単に引き下がったのだった。一人の合衆国市民が、米国のクライアント政府の兵士によって故意に殺されたのだというのに、政府機関による無関心は甚だしく、彼女の家族に約束されていた調査は反故にされてしまったのだ。

しかし、二つ目の、遥かに重要なレイチェル・コリーの話は、若い女性の行動そのものである。勇敢で気高いものだった。彼女は、シアトルから60マイル南の小さな町オリンピアで生まれ育ち、国際連帯運動(ISM)に従事し、彼女がかつて一度も直接触れたことのない人々の困難を間近に考えようとガザ地区に飛んだのだった。彼女の家族に送られた彼女自身による手紙は、彼女の基本的な人間性を伝える本当に素晴らしい証拠書類となっている。特に、彼女は、パレスチナ人たちから受けた親切や快く受け入れられたというくだりは心を動かされる。彼女は彼等と全く同じように生活をし、苦楽を共にしたからであり、イスラエルの支配も同じように恐怖し、その悪影響は小さな子供にまで及んでいるということを感じていた。彼女は、難民たちの行く末を理解していたし、イスラエル政府の影で行われる大量虐殺によって、特定のグループの人々は生き残ることさえほぼ不可能になっているともいっている。彼女は仲間にも影響を与えた。イスラエル保守派の一人ダニーに、彼の行動を思いとどまらせ、こう彼に書かせた「あなたは素晴らしい仕事をしている。あなたに感謝したい」

彼女の書き送った手紙で光彩を放っている部分は、ロンドンガーディアン紙に出版された。この手記は、パレスチナ人の抵抗の証拠となる。彼等は平均的な人間が最もひどい状況に置かれ困難や絶望に直面しながらも生き延びようとするものたちである。我々は最近ロードマップ(行程表)について多くを聞くようになった。そして我々の見落としている平和予測に、パレスチナ人は、捕われた身のままでいることを拒絶するし、合衆国とイスラエルの協力によって行使される力による集団的懲罰(リンチ)に屈することはないということだ。これが実際、行程表や数多くの和平案というものの偽らざる姿なのだ。米国やイスラエルや国際社会が人道的理由から殺人や暴力はやめなくてはならないと説得したからではないのだ。もし我々がパレスチナ人の抵抗の力を見落としたならば(なお、私は抵抗について自爆攻撃を全く意味していない。それは百害あって一利無しである)全ての失敗と過ちにも関わらず我々は全てを見過ごしている。パレスチナ人は、シオニストプロジェクトにとって常に障壁であった。そして、解決と呼ばれるものは、実際に解決するのではなくて問題を卑小化することでしかなかった。イスラエルの政府見解は、アリエルシャロン首相が「支配」と言う言葉を使ういかんに関わらず、腐食した未使用の塔を撤去するしないにかかわらず、彼は一度もパレスチナ人のことを同等に扱ったことはなく、人権というのはイスラエル中を通して無視され続けてきたことも認めようとはしない。いくらかの勇気あるイスラエル人は隠された歴史を明るみに出そうとしているにもかかわらず、ほとんどのイスラエル人と多くのユダヤ系アメリカ人は、パレスチナの現実を避け、無視し、拒絶することに努力を傾けてきた。これが故、平和が訪れないのである。

さらに、行程表は正義について問うこともないし、パレスチナ人に対する数えるのがうんざりするほど長い間、歴史的懲罰が与えられてきたことについて言及することもない。レイチェル・コリーのガザ地区での働きは、単に、不幸な難民の歴史ということでなくて生きたパレスチナの歴史を国家的コミュニティーの深みと厚みのある軌跡として理解できる。これが彼女が連帯したものだ。そして、我われは彼女のような連帯は、ごく少数の恐いものなしの魂だけがあちらこちらで活躍してるだけではなくて、世界的に広まっているということを知らなくてはならない。過去6か月、私は4つの大陸の何千人という人々に講義をしてきた。彼等を一体化させるものとは、パレスチナの人々であり、パレスチナ人が直面している困難であり、それが解放への呼びかけや啓蒙への促しとなっており、それは、パレスチナ人が敵からどんなに悪く揶揄されているにも関わらずだ。

いつであれ、そういう事実というのは知られる時、パレスチナ人の正義や、パレスチナ人による勇気ある困難への対決姿勢に深い連帯感が得られているのだ。ポルトアルグレ(ブラジル)での反グローバリズム集会とダボス(スイス)とアンマン(ヨルダン)の両方でパレスチナ問題が中心的課題であったというのは特筆すべきことである。なぜなら、わが国の市民は信じがたいほどの偏見と無知さ加減をメディアによって醸成されており、自爆攻撃を悪く言うだけで(イスラエル)支配のことは一度も言及されないし、高さ25フィート、厚さ5フィートのアパルトヘイトの壁が350キロに渡ってイスラエルによって建てられていることはCNNやネットワーク放送(意味のない行程表のことはたくさん触れているが)によって一度も報道されたことはないし、戦争犯罪や、好き放題な破壊や無力化、弱体化、家や農地の破壊など、パレスチナ市民の死の模様はほとんど報道されないのだ。これらのことは日常ルーチンに堕している。だからアメリカの中枢にいる人々がアラブ人やパレスチナ人に対してよい印象を持っていないということに驚いてはいけないのである。これらのことを踏まえて、一つ念頭に置かなくてはならないこととは、(米国の)左翼自由主義者から、右翼の端の方まで、すべて反アラブ主義、反モスリム、反パレスチナで一貫しているということだ。メディアの違法で不正義なイラク戦争に対する腑甲斐ない報道を見ればよい。そしてかつて、経済封鎖によってイラクの一般社会に与えられたダメージの報道の少なさを見るべきだ。世界で反戦運動がいかに盛り上がっても、その事実が、いかに巧妙に無視されているかを見るべきだ。ヘレン・トーマスをのぞいて、ほとんどのジャーナリストが政権のでっちあげた「事実」から述べたとんでもない嘘、たとえば、戦争前にはイラクが即時軍事的脅威であることや、同じ政府のプロパガンダ広報者は、かつて大量破壊兵器があるという幻想を作り上げたが、今では、そんなことは忘れてしまったか、まるで関係のないことのように扱っている。このことを追求するジャーナリストはほとんどいない。米国がイラク国土を破壊しておきながら、メディアは、イラクの現況がいかにひどく救いようのないということを議論し続けることで無責任に(イラクが大量破壊兵器を持っていたという嘘を)ごまかしているのだ。さらには、サダム・フセインに全ての悪の元凶を押してつける。もちろん彼はひどい独裁者ではあった。しかし、彼は、イラクに水や電気や健康教育といったアラブのどの国よりも優れたインフラストラクチャーを人々に提供したのも事実なのである。これらのこともどこにも記載されていないのだ。

だから、イスラエルによる無実のパレスチナ市民に対する暴力を批判することが、反シオニズムの恐怖をあおりことになり、脅威的な軍事圧力によってイラクを制圧した米国を批判することが「反米」だという烙印を押される。これは、悪意的なメディアや政府のアラブ社会、文化、歴史、考え方に反対する一大キャンペーンである。それらは、ネアンデルタール人(並に退行した)発言者で、オリエンタリストである、バーナード・ルイスやダニエル・パイプによって煽情され、多くの人々は、アラブ社会は本当に未発達で、役に立たない、詛われた人々であり、民主主義と発展から程遠く、アラブ社会は世界から大きく遅れており、時流に合わず、融通も効かない、超保守的だという風に信じ込まされているのだ。今こそ、気高さと批判的な歴史的思考を取り戻すことにより、何がプロパガンダによって、事実を歪曲されてきたかを見つめなくはならない。

ほとんどのアラブ諸国は、人気のない政治体制によって支配されており、多くの貧しく恵まれない若いアラブ人は原理主義の理不尽な宗教に洗脳されているのではないかと考える人は少なくない。しかし、ニューヨークタイムズがいうように、アラブ社会は完全に統制されており、意見の自由なんて存在しないし、民間の組織はなく、機能的な社会運動もないというのは、全くの嘘に過ぎない。報道を仕切る法など存在しないのだ。今では、アンマンの町中にくり出して、共産系新聞をイスラム系新聞と同じように手に入れることができる。エジプトやレバノンは、新聞やジャーナリストが溢れ、ほかの自由であると思われている社会よりもよほど、活発な議論やディベートが行われているのである。衛星チャンネルが様々な意見の洪水を起こし、民間組織はあらゆる段階で社会サービスを提供しているし、人権団体や地下ネットワーク、研究機関などは広くアラブ社会でとても活動的である。適度なレベルの民主主義を達成するにはまだ多くの努力が必要であることは確かであるが、我々がそこに向かっているのは確かである。

パレスチナだけで、1000以上もの非政府組織が活動しており、アメリカやイスラエルの日常的な邪魔立てにも関わらず、社会の発展に尽力している。どのような最悪の状態に置かれても、パレスチナ人はあきらめないし、完全に崩壊することはなかった。子供たちはきちんと学校に通っているし、医者や看護士は患者たちの面倒を見ている。男性も女性も仕事に就いている。組織は会合を行っているし、人々は、引き続きを生の営みを行っている。このことは、シャロンやその他の極右派で、パレスチナ人など収容所に叩き込むかどこかに追い払ってしまえばいいと考えている輩にとって攻撃的なことと映っているにちがいない。軍事的な解決手段は全く役に立たなかったし、これからも機能しない。なぜイスラエルにとってこの事実を知ることがこんなにも困難なのであろうか? 我々は、自爆攻撃という手段ではなくて、理性的な議論や、非服従と、組織立った抵抗運動をあちこちで行うことで、彼等に理解させなくてはならない。

私が、焦点を当てようとしているのは、アラブ社会を、特にパレスチナ人を、ルイス(バーナード・ルイス)の「何が間違ったか」や、ポール・ウオルフォビッツのアラブとイスラム世界に民主主義をもたらすのだというまったく無知な宣言に代表されるような浅薄なものの見方ではなくて、対照的そしてより批判的に捉えるべきだということだ。アラブ社会に対して、どのような真実があるにせよ、実際に人々は生きており、ありとあらゆる波、が行き交い、そこに発生するダイナミズムがあり、単に一つの側面から見つめただけで、狂信的な暴力社会だなどと揶揄することが以下に不毛か理解されるようなものだ。パレスチナ人による正義への戦いは、皆に連帯意識を呼ぶものであり、終わりのない批評や、怒り、不満のたまる自失や、麻痺した統一性ということではない。覚えているだろうか、南米やアフリカ、ヨーロッパやアジア、オーストラリアのあちらこちらで、連帯への参加があったことを。また、多くの人々が困難やとてつもない障害を取り除こうと参加する要因となったことを覚えているだろうか? なぜって? それは、正義ある働きかけであり、崇高な理想であり、平等と人権を目指す倫理的な探求となっているからだ。

私は、今まさに、気品についてお話ししたい。もちろん、それは、それぞれの文化で歴史家や文化人類学者や社会学者やヒューマニストたちによって位置づけられるだろう。私は、まず、根本的なオリエンタリストの、人種偏見に基づいた、アラブ社会には西洋や米国のように、個人主義など存在せず、個人の生活などというものは存在しないし、愛の価値を説かないし、親近感や理解などというものは、ルネッサンスという、変革や啓蒙を経た西洋や米国の文化だけの専有物だという考え方に反対する。ほかの多く(のプロパガンディスト)と同様、内容のない幼稚じみたトーマス・フリードマンは、作り上げた幻影を世間にバラまくことに腐心している。そして、ここでは私が名前を挙げる必要すらないが、その語りに乗せられているアラブの知識人たちは無知で自己欺瞞的であり、911での大量殺人は、アラブとイスラム社会が他のどの社会よりも、病気に冒されておりまともに機能していないということの所作だと思い込まされている。テロリズムというのは、どのような社会で起きたのであっても、広い意味での病気の現れにほかならない。

一つの側面に着目して見ると、西洋と米国の間で、20世紀の間におこった、暴力による死の数というのにイスラム世界が及ぼした影響など比較に値しない。そして、どれが正しいとか間違った文明だとかいう無益で非科学的ナンセンスを植え付ける背景には、グロテスクなサミュエル・ハンチントンという出来損ないの導師がいる。彼は、異なる文明間の衝突は永久に続くのだという考え方を多くの人々に信じ込ませた。一方、ハンチントンは、いかなる点でも間違ったことしか言っていない。どのような文化であれ、互いに独立して存在するなんてことはあり得ない。どの文明も個別に出来上がり、一つの文化が他を一方的に啓蒙するなんてこともありえないのだ。その文明も基本的なコミュニティーへの貢献、愛、人生の価値観の共有なしに存続はあり得ないのだ。そうでなくては、彼がするように、純粋な一方的な人種偏見に基づいて、次のような意見をまくしたてるようになる。例えば、アフリカ人は生まれつき頭が悪いだとか、アジア人は、仕えるために生まれてきただとか、西洋人は生まれつき優れた人種であるとかいったことだ。これは、かつてヒトラーのもたらした科学(優生学)が志向したものをパロディー化させ、反アラブやイスラム社会への抑圧へ向けたようなものである。だから、このことにまともにつきあって議論することなど全くないのだ。それは本当に馬鹿げたことだからだ。その一方で、述べなくてはならないことは、ほかの文明の人間文化に見られるように、アラブやモスリム文化にも特有の文化スタイルというのが存在して、その表現方法は、ほかの唯一認められた文化に似なくてはならない必要は全くないのだ。

人間の多様性に関して、もっとも重要なこととは、最終的に、とても異なるスタイルの個別性や経験が深い部分で共生していることであって、一つが他より優れているなどというところに還元されるということではありえない。しかし、専門家と呼ばれる者の、アラブ世界は発展と知識が遅れているというのは、根拠のない議論の立て方である。皆がすべきことは、モロッコから湾岸と広域に渡るアラブ世界の多岐にわたる文学、映画、舞台、絵画、音楽、ポピュラーカルチャーに触れてみることである。そのことを鑑みて、産業構造の発展を数値的に見て発達具合がどの程度かと判断するのではなく、アラブ社会がどの程度発展しているのかを見るべきだと思う。

より重要な指摘したいポイントというのは、我々の社会と、これらの社会を支配する少数の人たちとの乖離についてである。かつて歴史的にみて、アラブ世界において、これほど、少数の、王や、将軍、将校、大統領などの小さな集団に権力が集中したことはなかったのである。最悪なことに、彼等は、最良の人物が集っているというわけではないことだ。これは、単に、民主主義にいたっていないというだけの問題に留まらない。かれらは彼等自身と人々の能力を過小評価しており、できるだけ秘匿した空間に閉じこもろうとし、変化を恐れており、社会を一般の人々に解放することも恐れている。そして何より恐れるのは、彼等の偉大なる兄たるアメリカ合衆国だ。彼等は、市民を社会を豊かにする潜在能力と見るのではなくて、権力者たちを引きづり落ろそうとする罪深い謀略家として見ているのである。

これは、まぎれもない失敗である。イラクに対してひどい戦争が仕掛けられていた時、どのアラブリーダーも、アラブ世界で最も重要な国のうちの一つが、無法な軍事侵略されていることに、正面切って啖呵を切るだけの自己肯定力と自信がなかったのだ。サダム・フセインというとんでもない政治体制が崩壊したのは喜ばしいことだ。しかし、だれが、米国をアラブ世界のアドバイザーとして指名したのであろうか? 特に、学校制度や健康制度や米国の経済全体が1929年以来の失速傾向を見せているというのに、なぜ、多くのアラブ人にとって疑わしい米国の「民主主義」とやらが後を引き継ぐようになどといったい誰が指名したのであろうか? なぜ、米国の横暴な違法支配によって、アラブ世界は、百害あって一理ない目に遭っているのに、彼等の集合的意見は全く取り上げられることがないのであろうか? これこそ、まちがいなく巨大な絶望であり、気品も自主連帯も彼方に萎んでしまう。

ブッシュ政権の究極の力(神)による導きという語り口に対し、どのアラブリーダーも、自身が独自の光と宗教によって導かれているということを面と向かっていえるだけの勇気をなぜ持たないのだろうか? 全くない。かわいそうなイラクの市民は、とんでもない生活を強いられているといる間、周辺地域の民は、次は自分達がやられるのではないかと、ブーツをガタガタ震わせているのだ。ジョージ・ブッシュの登場はなんてアラブにとって不幸なことだろう。彼の主導による戦争は、主要なアラブ諸国のリーダーシップと組み合わせて、アラブ諸国を正当な理由なく破壊してしまった。ジョージ・ブッシュのやったことは、彼以前の誰ももたらさなかった絶望とさらなる苦しみを齎したのみだということを、彼に直訴する勇気のあるものはだれもいなかった。ばかりでなく、アラブリーダーは彼に対して、笑みを絶やさず、抱擁とくちづけを交わし、平身低頭するばかりなのである。ウエスト・バンクとガザに置ける反支配運動の継続のためのどこに外交的、政治的、経済的援助をつづける必要性があるのであろうか? そのかわり、皆が耳にするのは、外務大臣たちは、パレスチナ人に対して暴力を慎むようにし、和平交渉に取り組めというものだ。シャロンの平和的解決への興味は全くないというのにである。壁によって遮られたアラブ社会の反応、暗殺や集団的懲罰などの犯罪は一顧だにされず、国防総省によってよく作られたフォーマット上に使い古された言い回しだけが流布されているのだ。

私を打ちのめしたものとは、アラブ社会やパレスチナ人の気高さを取り戻すことの不可能性が、パレスチナの権力筋によって表現せられたとこにある。アブ・マゼン(モハメッド・アッバス、現パレスチナ首相)というあまり地位の高くなく、有力でもない政治家がアラファトとイスラエルと米国によってある仕事をまかされた。というのも、彼がまともな政治ビジョンももたず、偉大な煽情家でもオーガナイザーでもなく、単に、ヤセル・アラファトの忠実な部下ということに過ぎず、単にイスラエルの命令に従うだけで、つまり、アブ・マゼンは彼に用意された原稿を読み上げるだけの、国防総省の腹話術人形みたいなもので、ユダヤ人の直面してる困難をやたらと言及し、パレスチナ々がイスラエルの手によって苦しめられていることに関しては、口をつぐんでいるのだ。彼はどうして、このような全くプライドのない、彼自身を誤魔化すだけの役を引き受けてしまったのであろうか? 一世紀にわたり、権利を主張するために勇敢に戦ってきた人々を代表するという崇高さを、彼はどうして忘れることができたのであろうか? なぜなら米国とイスラエルがそうしろと言ったからであろうか? イスラエルは、単に、「暫定的」パレスチナ国家が成立するだろうという。しかし、これまで与えてきたとんでもないダメージ、数えきれないほどの戦争犯罪、端的に、すべてのパレスチナ人の男性、女性、子供たちに対する。システマチックなサディズムの行使、等に全く言及することはないのであるし、そのことへの理解は完全に失われたままである。指導者や代表者たちは、これらの人々が戦ってきた長い苦しみに動かされることがないのであろうか?彼は自己のプライドを完全に喪失してしまったのであろうか?

彼は、自分の運命だけでなく、彼の人々の運命を決定付ける重要な局面に際しているということを忘れているのであろうか? 彼の人々の戦ってきた栄光や崇高な経験を失ってしまうことに失念を抱かないものがいるであろうか? プライドも妥協もなく、曖昧さを排し、いささかの恥辱もなく戦ってきたというのにだ。なかば自己を訂正するかの色調でパレスチナ人のリーダーたちは、全く役に立たない白人のおとっつあんたちの顔色を窺っているのだ。

しかし、これがパレスチナ人支配者層のオスロ以降と、あるいは確かに、ハジ・アミン(1920ー30年代にユダヤ人入植者を追い出す排斥することに熱心だったテロと煽情に優れたリーダー)、若々しい抵抗と厳かに哀悼を述べる機会を取り違えているのだ。一体全体、なぜ敵の手によって書かれた経文を絶対に読まなくてはならないと考えるのか? パレスチナに生きるアラブ人としての基本的な尊厳と、アラブ世界を通して、そしてここ米国でも、我々は我々自身である、伝承と、歴史と、伝統と、全ての上に言語は、我々の本当の正確な姿を映し出すよう努力しなくてはならない。パレスチナ人の姿は、1948年以来、降り掛かった喪失と苦しみによって作られている。アデル・ナサーの時代より、自己を尊敬する気持ち、我々とは何であるかという気高さ、何を望み、何をしてきたか、そしてどこに行きたいのか、を語りはじめてから、どの政治家も様々に異なることを語りはじめるようになったのだ。

しかしながら、状況は少しづつ変わりつつある。アブ・マゼンやアブ・アマーのような古い体制の世界は、徐々に、新しく現れるリーダーたちによってアラブ全体がとって変わられつつある。もっとも実現可能な未来は、ナショナルパレスチナイニシアチブ(NPI)によって構成されている。彼等は草の根のグループで、単に、机の上の紙をいじくるだけのものでもないし、銀行預金の数値をもてあそぶだけでも、ジャーナリストの注目を集めたいだけでもない。彼等は、専門家、労働者、若い知識人たち、教師や医者や、法律家など、社会の発展に貢献している日常的に行われるイスラエル攻撃に抵抗するものたちである。二つ目に、これらの人々は、権力者たちの制限する民主主義運動に抵抗するものである。権力者のいう民主主義とは、彼等自身の安定と存続に他ならない。最後に、彼等(NPI)は、失業者に社会サービスを提供しているし、貧しい人や保険のない人に診療所を、パレスチナの新たな世代に、適度で中立な教育をあたえている。子供たちは、古い価値感だけでなくて、現在社会に置かれている現実も学ばなくてはならない。このプログラムによって、NPIは支配を取り除くことが、前に進むことだということに共通理念を持っている。自由な選挙によって選ばれた指導者が国を運営し、植民地化を廃絶し、過去におけるパレスチナ人たちの不備を時代遅れで使い物になっていないやり方ととって変えなくてはならない。

我々が、アラブ人、米国人として自分達に敬意を払うことができ、我々の困難の正義と気高さを理解することができたなら、その時初めて、世界の多くの人々が、ラシェル・コリーも含めて、彼女と同様ISMからの、トム・ハーンドールとブライアン・アベリーの負傷した二人が、我々の連帯に参加したことの意義を理解することが可能となるのだ。

最後にこの皮肉で締めくくろう。パレスチナ人やアラブ人が他の民族の人たちから得た連帯意識というのは、実は我々自身から受け取ることがないというのは驚くべきことではないだろうか。つまり、他の人々は、我々自身が自分達について思うよりも遥かに尊敬してくれているということなのだろうか? だからこそ、今、我々の代表するものたちが、自分達の現状を認識し直し、崇高なる目的のために戦い、何も自らを恥じることなどないし、謝らなくてはならないこともないということを知るべきではないか? 一方で、彼の人々が何をしてきたか、しているかを知り、彼らの代表者であることを誇りに思うべきである。


Gurdian 紙に掲載されたレイチェル・コリーの手紙 ↓
http://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,2763,916299,00.html

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