訳者による紹介(抄): 被占領パレスチナ、ヨルダン川西岸地区の西端近くにあるマスハー村に建設が始められた「アパルトヘイト・ウォール」。実質的にも象徴的にも、イスラエルとパレスチナを「分断」するこの壁の存在を前にして、村人たちとイスラエルの人たちとの間に、つながりが生まれはじめるのが印象深くとらえられています。著者はアメリカ国籍を持つユダヤ人女性だそうです。
なお、ヘブライ語の読みについては完全には自信ありません。間違っていたらご容赦ください。
過ぎ越しの祭の前夜。私がパレスチナの被占領地域で国際連帯運動(ISM)の活動をするようになって1カ月が過ぎた。この1カ月の間に、私たちの同胞であるアメリカ人女性がイスラエル兵士のブルドーザーに故意に轢き殺され、ふたりの若者が、ひとりは顔面に、ひとりは後頭部に、故意の銃弾を受けた。そして今、私は、イスラエルで平和活動をやっている友人たちと一緒であっても、明日のセデル[ユダヤ人のエジプト脱出を記念して過ぎ越しの祭の夜に行なわれる祝祭。晩餐の時に、エジプト脱出の物語、ハガダー(Haggadah)を朗読する]に向き合うことはできないと感じている自分に気づいた。私たちの先祖の隷属の日々の物語に涙を流したり、約束の地への旅を祝ったりすることなど、できはしない。もしかしたら、私は、自分の手で美しく飾りつけたセデルの晩餐のテーブルで、この胸にたまった苦い思い、つらい思いを洗いざらいぶちまけて、祝祭を台無しにしてしまうかもしれない。
そこで、私はマスハーの平和キャンプに行くことにした。マスハーは多くの人手を必要としている。明日は満月――その月の光のもとでなら、大地に横になるだけで、苦い思いのいくぶんかを流し去ってしまうことができるように思えた。
マスハー村は、「保安壁」と呼ばれている新たな壁の建設予定地上にある。そこに、地元の人たちの要請に応えて、平和キャンプが設置された。地元の人たちは大半が農民で、自分たちの土地の98パーセントが没収されるという事態に直面している。
マスハー村は、イスラエルの領域に通じる幹線道路に面していて、イスラエルの人たちが道路を封鎖するまでは盛んに交易が行なわれていた。農民たちは、オリーヴやイチジクやブドウや小麦を育てていたが、その土地は、何の補償も提供されることなく、壁建設のために没収されてしまった。ところどころに姿を現わしはじめた壁は、9メートルの高さのコンクリートの防壁で、監視塔を備えている。
壁がまだできていないところはすべて深い溝が掘られて電気フェンスが設置され、その周囲を取り巻く平らにならされた何もない区域には何本もの道路が付設されていて、兵士が常時パトロールを続けている。マスハー村はまもなく、隣接するエルカナー(Elcanah)入植地と完全に分断されることになる。マスハー村とエルカナー入植地は、ずっと平和な関係を続けてきた。マスハー村では武装した抵抗活動もなかったし、ただひとりの自爆攻撃者も出していない。
数週間というわずかな期間しか与えられないまま、この間近に迫った完全分断の通告に直面した村の評議会は、驚くべき結論を出すに至った。一から十までイスラエル人を憎んで当然という状況にあって、村の人々は、国際女性平和サーヴィス(International Women's Peace Service=IWPS)およびISMの活動に参加する外国人とともに、イスラエルの人たちを村に招待することにしたのだ。私たちは、ブルドーザーの通路際に平和キャンプを設置して、破壊の様子を観察し記録することにした。
マスハーにいることは、対立の最前線にいるということだ。村と入植地を隔てる道路封鎖物は、ふたつの現実の境界線だ。私は、テル・アヴィヴから入植者のバスに乗ってエルカナーにやってきた。バスは、私の叔母であったかもしれない年配の女性たちと、私の叔父であったかもしれない年老いた男性たち、そして数人の若者で満員だった。みな、過ぎ越しの祭、ヘブライ語で言うと、ペサーハ(Pesach)を迎えて、口々にハーグ・サミーハ(Hag Sameach=happy holiday)と言い合っていた。
バスが乗客の一部を降ろすために、ある入植地に入ると、私は、まるで南カリフォルニアの郊外が移植されたとしか思えない世界にいることに気づいた。みずみずしい木々にあふれた庭と真新しい家が建ち並ぶそこは、豊かさのオーラに包まれ、武装した警備員と鋭い刃つきのワイヤフェンスとイスラエル軍に安全を守られた中で満足げに安らいでいた。道路の分離帯にオリーヴの木を美しく配置した街並み。このオリーヴの木々は、農民の誰かの奪い取られた畑から移植されたのではないか、パレスチナの人たちの生活の資が入植地の飾り物に変じているのではないか――私にはそう思えてならなかった。エルカナーからは道路を数百メートル歩き、パレスチナの人々をイスラエルから締め出すために築かれた道路封鎖物を乗り越えた。その先に、古いオリーヴの木々が植わった広大な丘の斜面を背に、古い石造りの家と新しいセメント造りの家とシャッターをおろした店が並ぶ埃っぽい村が広がっていた。
マスハーのキャンプは小高い丘の上にある。オリーヴ畑の間に設置されたふたつのピンクのテント。石ころだらけの地面のあちこちに野の花が咲き乱れ、黄色いエニシダと刺のあるナシの木が点在している。オリーヴは涼しい木陰を作り、時には背もたれも提供してくれる。一方に目を向けると、オリーヴ畑は丘の天辺まで続き、青い山々を背景に何マイルもわたって広がる柔らかな灰色みを帯びた緑の向こうに、いくつかの小さな村が見える。だが、丘をぐるりと取り巻いているのは破壊ゾーンだ。斜面に灰色の刈り跡を残して、根こぎにされた木々とむき出しになった下層土の広い帯が続く、そのゾーンでは、恐ろしく大きな掘削機が、先史時代の巨大生物のようにのたうちながら前進し、石をつかみ取っては砕き、大地をえぐり取り、あたり一面に埃と轟きわたるエンジンの機械音を撒き散らしている。
私が着いた時、若者がひとり、木の下に坐って、黒いマーカーで石に何かを書いていた。ぼくは農夫です、と若者は言った。アラビア語で「木を切るな」と書いているという。そして、ちょっと考えたのち、優美な一行を付け加えた。私が翻訳してくれと頼むと、若者は素敵な笑みを浮かべて地面を指差した。「これは何でしょう?」「大地、かしら?」私は、若者が言おうとしているのが大地なのか土地なのか土壌なのかわからないままに問い返した。「大地はアラビア語を話している」と若者は言った。
イスラエル人は、ひとりを除いて、家族とペサーハを祝うために帰ってしまった。ふたりのパレスチナ人と一緒にキャンプを守るために夜を過ごすのは、私を含むISMメンバーがふたりとIWPSの女性がひとり。
満月が昇ると、私は石の上に横になって黙想した。何らかの平安か慰安が見出せればと願っていたのだが、この地の大地は徹底的に痛めつけられ、私には、その怒りしか感じることができなかった。堆積する大地の時間の層を何世紀も何紀元もおりていきながら、私は、祖先たちの泣き声を聞いた。この土地は血に染まり、何世代にもわたって冷酷な力に向き合い、ただただ切り崩されてきた。そんな時間を経てきた今、私たちがそれとは何か違った存在であるなどと、どうして言えるだろう?
午前3時、不寝番の交代で起こされた。火のそばに坐ったけれども、疲れ切っていた私はいつのまにかうとうとと眠ってしまい、朝になって、胸に痛みを感じながら再び目を覚ました。
しかし、やがてたくさんの人が到着しはじめた。正午からのミーティングのためだ。IWPSの女性たち、村の男たち、何十人ものイスラエル人。私たちは、翼部をあげたテントの中に坐って、壁に反対する国際キャンペーンをどのようにするかについて話し合った。そんな私たちの足もとで、石工をやっている男性がミニチュアの石の建物を作っていた。「たぶん、ここでは壁の建設をとめることはできないだろう」と村から来たひとりが言った。「でも、別の場所ならとめられるかもしれない」
ミーティングに参加したイスラエル人は、ほとんどが若者だった。アナーキストにパンクにレズビアンにワイルドな髪型の学生たち。マスハー村はとても保守的な社会で、村長と村のリーダーの人たちにとっては、実際のところ、こうしたワイルドな社会反抗者よりも、自分たちを憎んでいる正統派ユダヤ教会の人たちのほうが、ずっと多くの共通点があるのではないか――私はそんなふうに思った。しかし、村人たちはみな、好意あふれる温かなパレスチナの歓迎の気持ちをいっぱいに表わして、この若者たち全員を受け入れていた。「黒い洗濯屋(Black Laundry)」というグループの女性がいた。この「黒い洗濯屋」という名前の由来を説明するには、ヘブライ語の言葉遊びが関係する、ちょっとややこしい三者間の翻訳を必要とした。彼女は、「黒い洗濯屋」はレズビアンの直接行動グループだと説明して、通訳に、こういうグループに何か問題はあるだろうか、と聞いた。「ぼくにとっては何も」と通訳の男性は、ほんの少しとまどったように肩をすくめて言い、そのままミーティングは進行した。
ミーティングのあとで、私たちは、村の女性たちに会った。彼女たちは、私たちが何らかの形で村の人々の助けになることができるかどうかを知りたがっていた。この村の人々は生活の源を失おうとしている。私たちにできることが何かあるだろうか? 私たちは、ISMとしてできることについて長い話し合いをし、コミュニティ開発発展支援事業を行なっているいくつかの公的機関を調査してみると約束した。私たちが検問所を監視し、村人たちを通す手助けをするということを知って、村の女性たちはみな大いに興奮した。村から大学に通っている若者たちは、しょっちゅう検問所でとめられたり、大きく迂回して山の中を通っていかなければならないという。私たちはたぶん、この学生たちの手助けもできるだろう。
キャンプに戻ると、若いシャボブ(shabob)――未婚の若い男性――が全員、この夜のために村からやってきていた。ふたりの若者が夕飯の用意をしてくれている間、私たちは火の周りに坐って、笑いながらおしゃべりをしていた。不意に、私は、とてもすばらしいことが起こっていることに気づいた。ほとんどの若者がヘブライ語を話せるおかげで、イスラエル人とパレスチナ人が直接、話し合うことができるのだ。火の周りであけっぴろげにおしゃべりをしたり、いろいろな話を披露したり、笑ったり、全員がすっかりリラックスしている。夜、キャンプファイアを囲む若者たちのどんなグループとも変わりなく、気ままに振る舞っている。苛烈な敵同士などではまったくないかのように。本当に、これほどまでにシンプルに、平和の内にともに生きていけるのだというかのように。
こんなふうに、今年のセデルは不思議なものになった。マツォー[パン種を入れずに焼いた平たいクラッカーのようなパン。ユダヤ人は過ぎ越しの祭の間、普通のパンの代わりにマツォーを食べる]の代わりにピタ[アラブ諸国の平たいパン]、トマト添えのスクランブルド・エッグ、チキン・スープの代わりにホムス[味をつけてペースト状にした豆]、ワインの代わりに水、marorの代わりに、以前食べたことのある苦みのあるハーブ――これにはほんの少し甘い希望の味があった。
私にはもう二度と、「来年また、エルサレムで」と言うことはできない。コンクリートの壁と監視塔の建設、そして、それを守るために現在も続いている殺人――こんなことを要求する「土地の約束」など、もはや信じることはできない。エルサレムの古い石を自分たちのものだと主張するために拷問に等しい行動を続けるよりも、そんな石など捨ててしまうほうがずっとずっといい。
でも、私は、マスハーの約束は信じたい。自分たちにとって必要なものすべてを完全に破壊されるという事態に直面しながら、今、一緒にいる敵の子供たちに温かく広い心を向け、助けを求めている人たちを信じたい。そして、その人たちの声に応えようとしている若者たちの目に浮かぶイスラエルの心を信じたい。征服者と、完全に征服されることに抵抗しつづけている人たちの間の深い裂け目――そこに今、分離壁を打ち壊すことのできる橋とつながりと出会いが生まれはじめている。
来年には、おそらくマスハーキャンプはなくなっているだろう。イスラエル軍のために働いている建設業者はすでに次々に発破をかけて溝を作る作業を始めている。この溝はまもなく、村とオリーヴ畑を分断してしまうはずだ。壁の建設に反対する国際キャンペーンは始まっているけれども、現実には、イスラエルは、私たちが建設をストップさせる運動を軌道に乗せるよりも早く壁を作ってしまう能力を持っている。
それでも私は繰り返したい。純粋な信念の行為として。
来年また、マスハーで。
占領から36年めの2003年6月5日に、パレスチナへの公正な対応をサポートするための「国際行動デー」の呼びかけが行なわれています。詳しい情報については、以下のサイトをごらんください。
http://www.peacejusticestudies.org/palestine.php
壁のマップについては、以下のサイトをごらんください。
http://www.gush-shalom.org/thewall/index.html
スターホークさんは、活動家、オーガナイザー、著作家。Webs of Power: Notes from the Global Uprisingのほか、フェミニズム、政治学、地球ベースのスピリチュアリティに関する著書が8冊あります。公正と平和の問題を世界に広げていくためのトレーニングとサポートを提供するRANTトレーナー集合体(www.rantcollective.org)で活動中。この4月と5月、パレスチナに滞在して、国際連帯運動(International Solidarity Movement=ISM)――パレスチナの一般の人々の人権を守り、非暴力の抵抗を支援するグループ――のもとで行動しました。