Independent紙(ロンドン) 2001年11月28日

もう一つの対テロ戦争

やっと真実が証される

ロバート・フィスク
  
サナ・セルサウィさんは、19年あまり前の1982年9月18日に起きた混乱した、危険で、しかも極めて悲劇的な出来事を思い出しながら、慎重に、大きな声で、しかもゆっくりと語っている。イスラエルのアリエル・シャロン首相 − 当時国防大臣 − に対する原告側の証人として証言を準備している生き残りの一人として、時折話を止めては人生のなかで最も恐ろしい出来事の記憶をたどっている。「私たちは、レバノン軍のファランジスト民兵によって家から連れ出され、キャンプの入り口のところまで連れて行かれました。そこには大きな穴が掘ってあり、男たちはそのなかに入るようにいわれました。すると、民兵が一人のパレスチナ人を射殺したのです。ここまでくる間も、多くの死体をまたいだ歩いてきたのですが、目の前でこの男性が殺されるのを見て、私たちは皆大変なショックでした。女性の間から怒号の大声や悲鳴が起こりました。そのときです、イスラエル軍のスピーカーから「男たちをよこせ。男たちをよこせ」と聞こえたのです。『神様、助かった』とその時思いました」。が、この希望も残酷にも裏切られることになる。妊娠3ヶ月のセルサウィ夫人は、夫の30才のハッサンさん、そしてエジプト人の義兄ファラジ・エルサイド・アハメドさんが男たちの群衆の中に立っているのが見えた。「私たちはクウェート大使館に向かって、女性と子供が前、男性が後という隊列を組んで歩くように命じられました。男と女が別々にされたのです。私たちの脇にはファランジスト民兵とイスラエル兵が一緒に歩いていました。そのときはまだハッサンとファラジの姿が見えていました。パレードのようでした。人数は数百人です。シテ・スポルティフに到着すると、イスラエル兵は私たち女性を大きなコンクリートの部屋に入れられ、男たちはスタジアムの別のところに連れて行かれました。そこにはキャンプからつれられてこられた大勢の男たちがいて、もう夫の姿は確認できませんでした。イスラエル兵は『座れ。座れ』といいながら歩き回っていました。時間は午前11時です。その1時間後、私たちは帰るようにいわれましたが、外でイスラエル兵に混じって男たちが帰ってくるのを待ちました」。

サナ・セルサウィさんは、照りつける日差しのなかでハッサンさんとファラジさんが姿を現すのを待った。「出てきた人もいましたが、40才未満の男はいませんでした。まだ中には何百人といるので辛抱するようにいわれました。そして午後4時頃、イスラエル人の将校ができてきました。色の濃い眼鏡をかけたこの将校は『何を待ってるんだ。もう誰もいないぞ。全員いなくなった』とアラビア語でいったのです。シートをかけられたイスラエル軍のトラックが出ていきますが、中は見えません。ジープや戦車、そしてブルドーザーが大きな音を立てています。私たちは暗くなるまでその場所を離れず、イスラエル兵が立ち去る様子だったので、とても落ち着かない気持ちになりました。イスラエル兵が立ち去った後、中に入ってみると、そこには誰もいません。私は結婚して3年目でしたが、あのときを最後に夫には会っていません」。
 
本日、ベルギーの控訴院では、1982年にサブラとシャティーラの難民キャンプでパレスチナ民間人が虐殺された事件でシャロン首相を起訴するべきかどうかの審議が開始される(ベルギーの法律では、外国領で外国人が犯した戦争犯罪を裁くことができる)。この件を担当する原告側は、イスラエルの関与に関する衝撃的な、新証拠を入手したと考えている。
 
それらの証拠はカミール・シャムーン・スポーツ・スタジアム、通称「シテ・スポルティフ」に集中している。ベイルート空港から2マイルしか離れていない、損傷したこのスタジアムは囚人を収容するのに打ってつけの施設だった。1982年のベイルート攻囲の時には、ヤセル・アラファト率いるPLOの弾薬庫となり、繰り返しイスラエル軍機の爆撃目標となった。損傷の激しいその外観は、めちゃめちゃに壊れた巨大な入れ歯のようだった。パレスチナ人は以前に内部に洞窟のような空間を掘ったが、広大な地下倉庫や、選手用の着替え室は残されていた。このスタジアムはベイルートに住む私たちにとって見慣れたランドマークだったのである。1982年9月18日の午前、何百人、いやおそらく1000人を超えるパレスチナ人とレバノン人の囚人が、イスラエル兵と私服のシン・ベト(イスラエルの治安機関)捜査官、そしてレバノン人協力者らしき者の監督の下、その陰惨な、薄暗いスタジアム内部の地面に座り込んでいるのを私は見ている。男たちは明らかに何かにおびえた様子で静かに座っていた。私は時折数人の男が連行されるのに気が付いた。彼らはイスラエル軍のトラックやジープ、またはファランジストの車に乗せられ、さらなる「尋問」のために連行されていったのである。

私もこのこと(尋問だということ)には疑いを持たなかった。数百メートル離れたサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプでは、600人もの虐殺犠牲者の死体が日差しのなかで腐敗臭をたてていた。その臭いは囚人と、それを捕らえた者とを分け隔てなく包み囲んだ。その日は窒息するぐらいの暑さだった。ワシントン・ポストのローレン・ジェンキンス、ロイター通信のポール・イーデル、そして私が監房に入ることができたのは、見た目が西洋人であることからイスラエル兵がシン・ベトの一員と勘違いしたからだろう。囚人の多くは頭を垂れていた。が、イスラエルのファランジスト民兵 − 自分たちの指導者であり、次期大統領のバシール・ジェマイェルを殺害された怒りが依然収まっていない民兵 − は、虐殺を終えてキャンプからはすでに退去させられていた。そして、そのころには何はともあれイスラエル軍が現場を統括していたのである。何も恐れる必要はないではないか?

今あのときを振り返りながら、今日サナ・セルサウィさんの証言を聞くと、私は自身の無知に身震いがする。後にイスラエルによる1982年の侵攻と、PLOとの戦争を描いた本に収められた私の当時のメモには、今思えば不吉な手がかりが含まれていたのである。私たちは囚人の中にロイター通信のレバノン人従業員であるアブドゥラ・マタールさんがいるのを見つけ、彼を釈放してもらった。ポールは彼の肩に腕を回して先を歩いていった。すると一人の囚人が私に小声でささやいた「一人一人、尋問のために連れて行かれる。彼らはハッダード・キリスト教民兵だ。たいていは尋問が済むとここに戻されるが、全員がそうとは限らない。戻ってこない者もいる」。すると、イスラエル将校が私に立ち去ることを要求した。私が「なぜ囚人と話をしてはいけないのか?」と尋ねると、「話したければ話してもいいが、彼らは何もいうことはない」という返答が返ってきた。

イスラエル兵はみなキャンプで何が行われたかを知っていた。今や死体の腐敗臭は我慢ができないほどである。おもてでは、MP(軍警察)という文字の書かれたファランジストのジープが走り過ぎていった(本来、このような殺人集団を「軍警察」などという称号で呼ぶ由もないが)。複数のテレビ取材班が現場に到着した。そのうちの一つはシテ・スポルティフのおもてにいたキリスト教民兵を撮影していた。取材班はまた、「ヤーヤ」と呼ばれるイスラエル軍中佐に夫の釈放を嘆願している女性の様子も撮影していた(Independent紙ではこの中佐の身元を特定している。現在、彼はイスラエル陸軍の将軍である)。

スタジアムの反対側の本通り沿いには、イスラエル軍のメルカヴァ戦車が並び、戦車隊員たちが砲塔に座りながらタバコを吸っている。彼らはスタジアムから男たちが1人、または2人一組で連行されては、一部は釈放され、その他はシン・ベトの捜査官やくすんだカーキ色のつなぎ服を着たレバノン人に連れ去られるのを見ていた。これらの兵士たちはみなキャンプのなかで何が行われたかを知っていた。戦車隊員の一人、アヴィ・グロボヴスキー中尉は、その前日に数人の民間人が殺害されるのを目撃していたが、「邪魔」しないように命じられていた。この中尉は後にイスラエルのカーン委員会で証言している。

その後、私たちのところには不可解な報告がいくつも舞い込んできた。ダムールでは、少女がファランジスト民兵に車から引きずり出され、近くにいたイスラエル兵への懇願もむなしく、連れ去られてしまった。かと思うと、アメリカのテレビネットワークで働いていたレバノン人女性の掃除婦をしていた女性が、イスラエル兵が自分の夫を逮捕してしまったと激しく抗議していた。彼女は二度と夫に会うことはなかった。これ以外にも、人が「消えていく」というはっきりとしない噂がいくつもあった。

私も当時のメモには「シャティーラ(の虐殺)の後も、『テロリスト』といわれるイスラエルの敵が西ベイルートで抹消されている」と書いたものの、この暗い確信をシテ・スポルティフに直接結びつけて考えることはしなかった。また、戦時下におけるスポーツ・スタジアムの使われ方に関する空恐ろしい前例も頭には浮かばなかった。ほんの数年前、ピノシェットのクーデターの後、チリのサンチアゴでも、やはりスポーツ・スタジアムに大勢の囚人がつめこまれ、その多くが二度と戻らなかったという事件があったばかりではないか?

アリエル・シャロンを戦争犯罪で起訴しようとする弁護士たちが集めた証言の中には、ワドハ・アル−サベクさんの証言も含まれている。1982年9月17日金曜日、サブラとシャティーラでは依然虐殺が続いているころ(当時、彼女はこのことは知らない)、ワドハさんはキャンプの反対側のビル・ハッサンにある家に家族と一緒にいた。「近所の人に、イスラエル軍がIDカードにはんこを押したいといっている、と告げられ、階段を下りていくと、道路にはイスラエル兵とレバノン軍のファランジスト兵がいました。男性と女性は別々にされました」。このように男女を分けるやりかた − ボスニア戦争当時にスレブレニカで行われたのと同じこのやり方は、一連の大量逮捕に共通したものだった。「私たちはシテ・スポルティフに行くようにいわれ、男たちはその場に残りました」。その中にはワドハさんの二人の息子19才のモハメッドさんと16才のアリ君、そしてワドハさんの弟のモハメッドさんも含まれていた。「私たちはイスラエル兵にいわれるとおりシテ・スポルティフに行きましたが、息子たちと弟にはあれ以来会っていません」と彼女はいう。

生き残った者の証言は悲惨なまでに似通っている。バヒジャ・ズレインさんはイスラエルのパトロール兵にシテ・スポルティフに行くようにいわれ、彼女の22才の兄を含め、一緒にいた男性たちが連行されていった。イスラエル兵が見守る中、何人かの民兵が男たちに目隠しをし、車に押し込んだと彼女は証言している。「これが兄がいなくなった状況です。それ以来兄には会っていません」とバヒジャさんは公式証言で語っている。

私たちジャーナリストが死亡者の数に食い違いがあることに気が付きはじめたのはその数日後だった。サブラとシャティーラの外では600の死体が発見されていたが、その一方で1800人もの民間人が「行方不明」と報告されていたのである。私たちはこう推測した − 戦時下ではこのような推測がいかに簡単にできてしまうことか − 1982年9月16日から、ファランジストの殺人集団が退去する18日の3日間にこれだけの死者が出て、その死体はキャンプの外、おそらくはゴルフ場の地下に秘密裏に埋められたのだと。まさか何百人もの若者が18日、またはそれ以降に、キャンプの外で殺害され、私たちがキャンプを取材して回っている最中も殺害が続いていたなどということは考えもしなかった。

当時、なぜ私たちはこの可能性を考えなかったのだろうか?その翌年、イスラエルのカーン委員会が発表した報告書ではシャロンを非難する一方で、9月18日の残虐行為に関する調査はこれで終了した。報告書にはまた、頃を同じくして数百人の人たちが「消えた」可能性がある、とたった一行だけ付け加えられ、それ以上の説明はなかったのである。委員会では生き残ったパレスチナ人の証言を聞いていないが、この報告書の内容が「歴史」として語られるようになった。イスラエル兵が血に飢えた味方の民兵に囚人を引き渡していたなどということは、私たちは想像だにしなかった。サブラとシャティーラのパレスチナ人の証言は、まさにこのようなことが行われていたという証拠である。アブデル・ナセル・アレメヘさんは、弟のアリが18日の朝にファランジストに引き渡されたと考えている。ミラネヘ・ブトロスさんというキリスト教パレスチナ人の女性は、女性と子供がトラック一杯に乗せられてキャンプからビクファヤというキリスト教徒の町(暗殺されたばかりのキリスト教次期大統領バシール・ジェマイェルの故郷)に連れて行かれた様子を証言している。そこで、悲しみに打ちひしがれたキリスト教徒の女性がトラックに乗っていた13才の少年の処刑を命じ、その命令どおりに処刑が執り行われたと証言している。このトラックはビクファヤに向かう途中、イスラエルの検問を少なくとも4個所は通ったはずである。そして私は神の許しを請いたい気持ちだ _ 今思えば少年の処刑を命じたこの女性に私は会ったことがあるのだ。

キャンプ内で依然虐殺が続いているころ、シャヒラ・アブ・ルデイナさんはシテ・スポルティフに連れて行かれ、その地下の「保管場」で知恵遅れの男がイスラエル兵が見張られながら、大穴に死体を埋めているところ目撃している。 彼女はまた、シャティーラ・キャンプ内で自分の娘たちが殺害されるのをイスラエル兵が防いでくれたこと − これはイスラエル側のあらゆる証拠とは矛盾する − に感謝の意を表しているが、この事実がなければ彼女の証言は採用されないかもしれない。

終戦後何年もたってから、シテ・スポルティフの廃墟は取り壊され、イギリスの援助を得て、大理石の新しいスタジアムがその場所に建設された。パヴァロッティもこのスタジアムで公演している。が、その基礎の下に何が眠っているかに関する証言、身の毛もよだつような事実を暗に語るこれらの証言は、アリエル・シャロンにとって、起訴を恐れる理由のもう一つになるかもしれない。