チョムスキーとのインタビュー

ポルト・アレグレへ向けて

20021

(http://www.zmag.org/chomskypa.htm)

ポルト・アレグレでの第2回世界社会フォーラム(2002131日〜24日)開催前の1週間における

(主としてラテンアメリカでの)Eメールやラジオや雑誌のインタビューから編集

 

Q:あなたは何故「世界社会フォーラム(The World Social Forum: WSF)」への参加を決意されたのですか? 世界社会フォーラムをどのように考えていますか?

A:二つの会議がほぼ同じ時期に開催されようとしています。一つは「ダボス会議」[世界経済フォーラム: The World Economic Forum, WEFであり、世界の指導的ビジネス雑誌であるロンドンの『ファイナンシャル・タイムズ』誌が一年前の会合の時に用いた言葉を使えば「全人類の支配者達 (the masters of the universe)」が集う会議です。その言葉はおそらく多少皮肉を込めて使われていたのですが、かなり正確な表現です。もう一つの会議はポルト・アレグレでの「世界社会フォーラム」であり、世界中の市民組識の代表者達が集まります。世界が必要としているものに関する彼らの構想は「支配者達」の構想とはかなり異なっています。

どちらのグループも、もちろん、一般投票で選出されたわけではありません。このことは支配者達とその追従者達によって絶えず世界社会フォーラムに対して向けられた非難の言葉なのですが、明らかにダボスに集う者達に遥かに当てはまる非難です。事実、そこで議論となる問題に対して、そもそも「選出された諸政府」が存在すると語るのは一つの考え違いでしょう。その理由は、それらの問題が、例えば米国のような最も自由で民主主義的な社会の中でさえ、一般住民から隠されているからなのです。

世論調査は、一般住民がそれらの問題に大変関心を持っており、法人部門や政府やイデオロギー組織によってほぼ満場一致で支持されている支配者達の諸政策に大きく反対していることを明らかにしています。メディアは一般住民の反対を十分承知しています。例えば『ウォール・ストリート・ジャーナル』は自由貿易協定と誤ったレッテルを貼られた協定の反対者達が 一般住民という「究極の武器」を持っていると無念そうに述べています。そのため協定は秘密裏に行なわれなければならないのです。同様の理由で、それらの問題は政治の領域では議論されていません。しかしWSF世界社会フォーラムが、市民組識や労働組合や農民組織や独立系メディアや他の手段を通して情報を得るようになった、全世界の人民の側のかなり広域にわたる集団を代表していると考えることは妥当なのです。

そこであなたの質問に答えれば、私はそこに参加する機会を得たことを嬉しく思っているのです。

私がWSFをどのように考えているかに関してはお答えすれば、私の意見では、公正な未来への希望は実質的にポルト・アレグレに集う人々やそれに類する人々の手の中にある、となります。

Q: ポルト・アレグレ・フォーラムはそれが反ダボス会合であると語るのを好んでいます。あなたは問題が全てこの対立であると考えてはいませんか?いわゆる「唯一の思案(unique thought)」への闘争の方法は「それに対抗する思案 (opposed unique thought)」を提案することなのでしょうか?ポルト・アレグレ・フォーラムが要求していること(負債の免除や農業の保護主義的政策の削減やその他の問題)が低開発 (underdevelopment) を終わらせるのに十分であるとあなたは本当に考えているのでしょうか?

A:ポルト・アレグレ・フォーラムが「反ダボス」であると表現することは、ダボスが何らかの方法で自明で合法的であること、そしてダボスが代表しているものへの一般住民の抵抗が何らかの特別な正当化を必要とすることを前提としています。もし人がこの問題をそのような用語で組み立てることを選択するならば(私はそうはしませんが)、ダボスが「反ポルト・アレグレ」であると言う方がより合理的でしょうし、何故ダボスの会合がそもそも開催する権利を持っているのかと問うことがより合理的でしょう。

ダボスは国際的ビジネス新聞が多少の皮肉を込めて「全人類の支配者達」と呼んでいる人々の会合です。

ポルト・アレグレは社会が組織化されるべき方法についての見解が「支配者達」のそれとは異なった意見を持つ世界中の市民組識の会合です。

このような対立は歴史の主要な主題になっています。そして幸運なことに、民衆勢力は数世紀にわたって、ダボスに集まる人々のような非合法的で説明責任を負わない権力の中枢を打ち負かしつつ、多くの勝利を得てきました。ダボスの参加者達はもちろん民主的に選出された諸政府を代表していることを装っています。しかしそれはまったく見え透いた戯言ですので我々がそれについて時間の無駄をする必要が無いと私は考えます。特に新自由主義的グローバリゼーションに関してはなおさらです。

WSFに集う人々の計画案がグローバル社会の深刻な問題に対して(「低開発」はその中の一つの問題ですが)有意義な成果をあげる事が出来るかどうかは、ご質問の中の「その他の問題」という言葉に何が含まれるかに懸かっています。あなたが言及した「負債の免除」と「農業の保護主義的政策の削減」という二つの例は重要ではありますが、WSFはその二つを越えて進まなければならないことは明らかです。

Q: あなたはこの運動を左翼的・自由主義的・進歩的勢力の新しい種類の「インターナショナル」と見なしていますか?その意味で、それは綱領を持つべきなのでしょうか?

A:左翼の伝統的な目標は、その近代の始まり以来ずっと、世界の大多数の住民が参加することを基盤にして、ある形式のグローバル化をもたらすことでした。そしてそれは当然その人達の利益や関心に答えるものです。このような問題は多様で複雑であり、しばしば不明瞭です。それ故、創造的・実験的な精神で探求されるべき事柄です。一言でいうなら「インターナショナル」なのです。19世紀からその準備的努力がありましたが、野蛮な国家権力や他の要因によって中絶されるか歪曲されてきました。

WSFは底辺からのそのようなグローバル化の初めての有意義な表明になる見込みを持っています。それは大変歓迎すべき展望ですし、大きな見込みを伴っています。「綱領」に関して言えば、ある程度の理解や展望が共有されています[訳注:例えば、2001年の第一回の会合の記録及び宣言が出版されている:F. Houtart & F. Polet, The Other Davos: The Globalization of Resistance to the World Economic System. London: Zed Books, 2001. なお、これには邦訳が出版されている:三輪昌男(訳)『別のダボス:新自由主義グローバル化との闘い』つげ書房新社、2002年]。様々な計画が前段階の会合の中で考案されていますし、協同的行動をもたらしています。綱領がどの程度特定であるべきかに関してはあなたの最初の質問WSFは新しい「インターナショナル」なのか?]へと導きますね。

Q: 何故支配的権力はWSFやこの種の運動に懸念を示さねばならないのでしょうか?それは金融企業や多国籍企業の権力に挑戦する現実的機会を持っているのでしょうか?

A:支配的権力、概して「全人類の支配者達」はWSFやそれが代表する勢力、そして彼らが「反グローバリゼーション運動」と呼ぶものについて大きな懸念を抱いています。「反グローバリゼーション運動」という言葉はプロパガンダ用語であり、我々が避けるべき表現です。彼らの懸念こそがそれらの運動を非難する論文の絶え間ない大合唱が存在する理由なのです。それはまた国際経済協定が大部分秘密裏に交渉され、その詳細がほとんど報告されない理由でもあるのです。

作年(2001年)4月の米州諸国が集ったケベック・サミットを実例として考えてみましょう。それは「米州自由貿易圏(FTAA)」に署名することになっていました。我々は世論調査からそれらの問題が国民にとって重大な関心事であることが分かっています。しかしそれらの問題や次のサミットやFTAAの問題は200011月の大統領選では注意深く[争点から]外されていました。また国民はメディアからの事前の情報を事実上何も受け取っていなかったのです。

そのサミットの時には、報道は大部分無意味な内容のものでした。その中身は大部分混乱に終始し、ケベックに集まった指導者達による民主主義と「透明性」への熱烈な支持への多大な賞賛が伴っていました。それらの高い理想への彼らの具体的行動はそれらの問題を隠蔽していることによって示されているだけではなく、新たなFTAAの模範として認識されていた、NAFTANorth American Free Trade Agreement:北米自由貿易協定]の[一般住民への]様々な影響についての優れた人権団体や経済分析機関による主要な研究を情報統制したことによっても示されているのです。それらの研究はサミットの時期に合わせて公開され、米国のあらゆるニュースデスクにその研究書が配布されていたのです。この事態は報道をチェックする有用な機会です(心配には及びません。調査は行われ、事実上全く報道されなかったことが判明しています)。この沈黙と秘密主義は全く道理に適っています。権力組識の中枢は脆弱なものであり、そうであることを知っているのです。そして彼らは「究極の武器」(一般住民)が鞘から抜かれることのないようにあらゆる努力を傾けなければならないのです。

Q: 世界社会フォーラムはこの平和的な世界への希望に対してどのような貢献をすることが出来るのでしょうか?

A: 最近になって米国の諜報機関は来るべき時代に対する計画を公表しました。彼らは「グローバリゼーション」(この場合、権力の中枢によって賛同されている特定の形式の新自由主義的経済統合を意味します)が続くならば、不平等の増加と金融の不安定の増大(従ってより緩慢な成長と危険な混沌)をもたらすことになると予測しています。5年前に、米国宇宙司令部(the US Space Command)は、(その小部門として「ミサイル防衛」を含む)宇宙の軍事化計画を担当しているのですが、その諸計画への公的正当化を発表しました。その主要な懸念の一つは、「持つ者」と「持たざる者」との間の分裂の増大であったのです。彼らもまた投資家の権利を強調する「グローバリゼーション」の結果がその事態をもたらすことを予測していたのです。当然のことですが、彼らは、「グローバリゼーション」の結果が世界中で増大する貧困化した人々の間で大混乱をもたらし、それらの人々が力によって統制されなければならなくなる、と考えています。 従って宇宙を軍事化する必要性が、宇宙から発射されるおそらく原子力を利用した莫大な破壊的兵器を、米国が装備する必要性が生ずるのです。犠牲者達への恐ろしい結果は別にしても、力による統制が「グローバリゼーション」がもたらした大惨事に対する処方箋でもあるのです。

そのような背景を考慮すれば、世界社会フォーラムの平和に満ちた世界への潜在的貢献はまったく明らかになります。

WSFはそれらの危険で極めて威嚇的な趨勢を方向転換させるために努力している世界中の人々の会合であり、その中核的問題に、すなわち、そのような不吉な結果をもたらすことをその設計者達によって期待されている新自由主義的グローバリゼーションのプロセスに、焦点を絞っているのです。WSFの参加者達は基本的に諜報機関や軍事立案者達の予測と意見が一致しています。しかし彼らは、権力の中枢を代表しているのではなく、人民を代表しており、従って、異なった懸念を抱いているのです。彼らの関心とは人類の健全な方法での生存であり、体制側の設計者達が期待しているような、権力の集中化の増大やそれがもたらすあらゆる利益ではないのです。

あなたの質問に戻りますと、WSFの平和的世界への貢献は極めて重要であり、明確な結果をもたらす可能性を持っています。

Q: いわゆる反グローバリゼーション勢力(私の論文では、その諸勢力を「グローバリゼーション」に抵抗するものではなく、「新自由主義的グローバリゼーション」に抵抗するものとして述べることを好んでいますが)の複雑で多様なシナリオを組織化することは可能なのでしょうか?

A: あなたが彼らを「新自由主義的グローバリゼーション」の抵抗勢力と呼ぶのは正しいですね。つまり、そのグローバリゼーションは、一般住民の利益を副次的なものと見なし、「全人類の支配者達」によって自分達の利益のために設計された、ある特定の形式の国際的経済統合なのですから。それほど驚くべきことではありません。もしそうでないとするならば、それこそが驚くべきことでしょうし、論理においてはもちろん歴史においても急激な変化ということになります。

一般的な意味での「グローバリゼーション」に反対する人は誰もいません。例えば、WSFの参加者達は、WSFが存在しているという事実や彼らが参加している事実に反対していません。それは一つの建設的なグローバリゼーションの実例なのです。

あなたはまた「複雑で多様なシナリオ」と呼んだのは正しいですね。それはそうあるべきなのです。多くの利害が代表されています。南や北から来た人々、農場や工場から来た人々、あらゆる生活活動範囲から来た若者や老人が、非常に重要ではあるがしばしば誰にもほとんど理解されていない複雑な問題を考えるために一堂に会しているのですから、そうであるべきなのです。どの程度の組織化が存在すべきかに関しては未決問題です。それは共通の目的や理解のレベルを超えて進むべきではないでしょう。どの程度の組織化になるかは参加者達の決定に委ねられています。

Q: 「反アメリカニズム」と「グローバリゼーションへの闘争」との違いは何なのでしょうか?この言葉は米国によって、冷戦によりもたらされた分極化のような、新しい分極化を推進するために利用されることがあり得るのでしょうか?反米的抵抗の中で、テロ行為を捜査し、止めさせる方法はあるのでしょうか?

A: 科学的研究でも人間社会の問題を調査する際にも、疑問がどのように定式化されているかを注視することは常に重要です。[そうすることで]暴露されるべき、批判的に分析されるべき、しばしば退けられるべき、隠された前提が見出されることが稀ではないからです。その重要な予備的作業がなされた後に、我々はしばしばその疑問に答えることが不可能であり、書き換えられるべきであることを見出します。

私はこの場合にはそれが当てはまると考えます。「反アメリカニズム」という概念を例に取りましょう。そのような概念は全体主義的国家や軍事独裁制の中だけで使用されている典型的なものです。それゆえ、「反ソビエト主義」はかつての時代ではクレムリンの講堂では重大な犯罪でした。またブラジルの将軍達とその支持者達は彼らの国内の敵を「反ブラジル人」として非難したと思います。

自由に対して何らかの尊重を伴う国では、そのような概念は嘲笑と共に避けられることでしょう。「反イタリア主義」という題名の著作に対するミラノやローマの通りでの反応を想像してみて下さい[訳注:イタリアは地域意識が高いことで有名]。そしてその後に評判の著者の「反アメリカニズム」と題された著作[訳注: 次の著作を指していると思われる。Paul Hollander, Anti-Americanism: Irrational & Rational. Transaction Pub. 1995に対する米国と英国での実際の反応を観察してみて下さい。ついでに言えば、その学者はソビエト連邦の専門家であり、それゆえ自身が従っているモデルを十分理解しているのです。その本が神聖なる国家[米国]を崇拝することを怠る人々への欺瞞的な叱責で満ちていることを、またそのためにその著作が『ニューヨーク・タイムズ』や他の場所で多いに賞賛されていることを見出したとしても誰も驚くべきではありません。

クレムリンやブラジルの将軍達の犯罪を批判した人々は「反ロシア人」や「反ブラジル人」ではなかったことは確かなことです。同じ理由で、世界で最も強力な国家の犯罪に対して反対する人々は反アメリカ人ではありません。実際にはそのような犯罪はほぼ大部分の米国住民によって激しく反対されていることが稀ではないのです。「反アメリカニズム」といった言葉は、その醜悪な実例として、捨て去られなければならないのです。

次に「グローバリゼーションへの闘争」について考えてみましょう。私はそのような闘争が存在するとは思いません。

例えば、ポルト・アレグレでの世界社会フォーラムへの参加者達は、国際的な統合の、すなわち、グローバリゼーションのおかげで彼らが参加することが可能であるという事実に反対などしていません。第一インターナショナル (First International)[訳注:正式には国際労働者協会(International Workingmen’s Association)。イギリス・フランスなどの労働者によって1864年ロンドンで結成された世界最初の国際的な労働者の大衆組織。やがて労働運動が国単位に組織されてゆく傾向が強まる中で内部紛争が生じ、76年みずから解散。]はグローバリゼーションに反対していませんでした。その名称が示しているように、それこそがその最も高い目標だったのです。グローバリゼーションそれ自身は誰にも支持されていないし反対されてもいません。問題はどのような種類のグローバリゼーションなのかということです。他の言葉と同様に、「グローバリゼーション」という言葉は権力者達によってイデオロギー的武器として専有されています。彼らはその言葉が、投資家達や金融機関の利益のために設計された、ある特定の形式の国際的経済統合を表すために使用されることを望んでいます。その後彼らは彼らの計画の批判者達を「反グローバリゼーション」として、石器時代に戻ることを望んでいる「原始人達」として、非難することができるのです。誰もそのような欺瞞的な言葉の使用を許すべきではありません。

ご質問に戻りますと、その定式化は成立しません。従って回答することが出来ません。なぜならそれは型に嵌まった用語の中で組み立てられているからです。それは不適切な回答しか出来ない事を保証するために考案されているのです。

ご質問をもっと適切な用語に翻訳すれば、「アメリカ人」という言葉が米国国民を指し示すのであれば、この特定の形式の国際的統合に対する人民の闘争が「反アメリカ人」として理解される可能性などありえないことが明白です。単純な理由の一つはそれが大多数のアメリカ住民によって反対されているからです。その反対の内容は、何故閉じられたドアの向こうで交渉が行われなければならないのか、何故その問題が選挙の際に争点とならないのか、何故メディアや雑誌は知っている事を「秘密のヴェール」で包まなければならないのか、といった事柄です。

ご質問の「分極化」について言えば、米国の権力の中枢と他の地域の提携者達はそれを望んではいません。むしろ彼らは「服従」を望んでいるのです。もし彼らに反対する人々が服従しないならば、もちろん彼らは、その人々を中傷したり処罰したりして、「分極化」を先導するでしょう。その姿勢には新しいものも驚くべきものもありません。

テロ行為の防止に関して言えば、それが弱者によるテロ行為でも強者によるテロ行為でも、重要な課題です。強者によるテロ行為の方が遥かに致命的で破壊的であることは言うまでもない事ですが。もちろん権力者達はテロの概念を制限することを求めるでしょう。その概念が自分達に対するテロ行為だけに適用され、彼らが他の人々に対して行なう遥かに悪質なテロ行為を排除するためにです。もし我々が彼らの定義に従うならば、我々は、なぜ金持ちや権力者達に向けられたテロが捜査され防止されなければならないのか、と問うことしかできなくなってしまいます。しかし我々は第一段階で罠に嵌まってしまっているのです。

Q: 昨年(2001年)の第一回世界社会フォーラムの数ヶ月後に、フェルナンド・エンリケ・コルドソ大統領は世界中の資金移動(financial transfer)への課税の創設を擁護しました。これはもともとは、世界社会フォーラムを組織したNGOの一つである、ATTAC[訳注:アタック、市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション]の提案でした。また昨年にフランスの議員の一人がフェルナンド・エンリケに世界社会フォーラムについて祝辞を述べました。とはいえ大統領はその会合に何も関わっていなかったのですが。あなたは世界社会フォーラムの議論が権力者達の心を変えることが、少なくとも彼らの行動に影響を与えることが出来ると思いますか?

A: その課税提案は何年も前に遡ります。実際には多くの異形が存在するのです。あなたが言及したこの種の提案で最も知られているものがノーベル賞受賞者であるジェームス・トービンJames Tobin (1918- ). 米国の経済学者]の約三十年前の提案です。それ以前にジョン・メイナード・ケインズも同様の資金移動(financial transfer)への課税を提案していました。この問題は1970年代のブレトン・ウッズ体制の解体と共に重要性が増大したのです。ブレトン・ウッズ体制の解体は非常に短期の資金取引の天文学的な増大をもたらしました。この事態は多くの経済学者がここ二十五年間の「新自由主義」時代における世界経済の一般的悪化の主要な原因と見なしています。一つ例を挙げれば、ジョン・イートウェルとランス・テイラーの最近の著書がそうです[訳注: John Eatwell & Lance Taylor. Global Finance at Risk: The Case for International Regulation. W. W. Norton & Co, 2001.

WSFに関して言えば、それは、ここ数十年にわたって世界の大部分に強要されてきた、投資家の権利を重視する特定の形式の「グローバリゼーション」に対する長期にわたる民衆の抵抗の所産なのです。抗議や抵抗は、非常に顕著なブラジルを含めて、主として発展途上国で繰り広げられて来ました。近年では、抗議や抵抗は先進国にも拡大しています。そして重要な国際的提携が形成されました。これは非常に将来有望な発展です。

支配的な権力中枢の言葉遣いや、ある程度は彼らの行動にもはっきりとした影響が存在します。たとえ全体主義体制や軍事独裁制であれ、ある程度は民衆の空気に対応しなければならないのです。そのことはより自由で民主主義的な体制ではさらにもっと当てはまります。しかしWSFの目標は権力者達の過酷さを和らげることを誘導するだけであってはならないのです。むしろ、その目標は非合法な権力の中枢を解体することでなければなりません。幸運にも、それは数世紀にわたって歴史の主要な主題でした。そしてそれはけっして成り行きに任せられてきたものではないのです。

Q: あなたは人々の考えがメディアによって操作されていると語っていますが、何千もの人々が集まった世界社会フォーラムやシアトル[訳注:199911月末から12月初頭のWTO開催への抵抗運動]のような出来事は人々が自分の意見を自主的に決定できること示す証拠であるとは思いませんか?

A: 私は人々の考えがメディアによって操作されていると語ったことはありませんし、そのように信じてもおりません。全く逆に、私はしばしば大企業や国家のメディアによってほぼ満場一致で支持されている政策に対して一般の人々が反対している重要な諸問題について議論してきたのです。当然ながら、それらのメディアや他の教条的組識は、その指導者達の言葉を借りれば、「一般大衆の心を操作」しようとしています。そのことは、少なくとも真剣な人々の間では、全く疑問の余地がないものと見なされています。しかし彼らはしばしば失敗します。実際には全く劇的に失敗するのです。そのような事態が生じた場合、よくあることなのですが、政策は秘密裏に決定されなければなりません。そして権力体制はしばしばそのことに極めて率直です。

例えば、紛らわしく「自由貿易協定」と呼ばれている国際経済協定を例に出しましょう。その協定はエリート階層のほぼ満場一致の支持を得ていますが、『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌が嘆いたように、反対者達は「究極の武器」を持っているのです。つまり一般の人々が反対し続けていたのです。それゆえに協定は大部分秘密裏に行われなければならず、その問題が選挙の際に争点として論じられることがないのです。機密情報リストから外された政府関連文書を注意深く読んだ人なら誰でも、秘密にされていたことの大部分が、実際にその大部分が、国家安全保障とは何の関係もないことを知っています。それが機密である目的は、記録されていることが敵に知られるのを防ぐためではなく、むしろ、国内の住民から記録文書を遠ざけておくためだったのです。もし人々が事実を知ったとすれば、自分達の名前で行われている事態を許容する事などありそうもないからなのです。同じ事は「秘密作戦 (clandestine operation)」についても当てはまります。例えばレーガン政権が「テロリズムとの戦争 (war against terrorism)」に戦うために創り出した常軌を逸した「秘密国際テロネットワーク」などです。当初レーガン政権はケネディー政権のやり方に従おうとし、ケネディーが南ベトナムで行ったように、中米での戦争を極めて公然と行ったのですが、彼らはすぐにそれがうまく行かないことに気付きました。米国は非常に大きく変化していたのです。民衆の抗議が直ちに湧き起こったため、レーガン政権は戦術を変え、秘密作戦に転じたのです。

しかし単純に、誰がその作戦を知っており、誰が知らなかったかを考えてみましょう。その犠牲者達はもちろん知っていました。また参加したおびただしい数のテロリスト国家も知っていました。メディアも同様に知っていましたが、最も重要な事実を隠す事を選んだのです。暗闇の中に遠ざけられていた唯一の人々は米国の住民だったのです。実際には、他の手段(連帯グループや教会を基盤とする組織や独立系メディア等)によって、大変多くの人々は隠されている事実について学んでいました。そして民衆抗議運動が、インドシナ戦争の際の抵抗運動を遥かに超えたレベルで、歴史上前例のないやり方で発達しました。ともあれ、秘密事項の標的は通常の標的、すなわち国内の住民だったのです。

教条的組識が世論を操作してしまっていると考えるのは単純に誤りです。もちろん彼らはそうしようとしますし、時には成功します。しかししばしば失敗します。時には大々的に失敗するのです。

Q: あなたは、1996年にブラジルを訪問した際に、新自由主義を批判しましたが、そのことはフェルナンド・エンリケ・コルドソ大統領を悩ませました。彼は「チョムスキーは言語学には通じています。私は言語学についての意見を言いません」と語りました。言語学者として、あなたはほぼ満場一致で支持されています。しかしあなたの政治的見解は多くの批評家達に「反アメリカ的」で、「陰謀説 (conspiratory theories)」に支配されているものと分類されています。それについてどう思われますか?

A: 様々な中傷を生み出すことは極めて容易なことです。それらを繰り返したり対応したりするのは時間の無駄です。もし論拠が存在するのであれば、私はそれらに喜んで耳を傾けますよ。

言語学についてのその論評は、もし本当に行なわれたのであるなら、単純に子供じみており、返答するに値しません。その業績についてですが、現代言語学における最も優れた仕事のいくつかはその分野の公式的な学歴を全く持っていない人々によって成し遂げられました。事実、言語学の専門家達は誰でも知っていますが、私自身のその分野での経歴はたまたま非常に特異なものであり、不十分なものでした。真剣な学問領域の中では誰もそのようなことを気にしたりしません。問題なのは形式的な裏書きではなく、仕事の質です。そのことは、真剣に探求されている研究分野では、基本的であるべき事柄ですし、事実そうなっています。しかしイデオロギスト達はもちろん自分達の教義から逸れるような議論を妨げようとして、あなたが引用したような愚かな方策に訴えようとするのです。

私は既に「反アメリカ人」という恥ずべき概念については説明しました。

「陰謀説 (conspiracy theories)」についてですが、その言葉は権力の擁護者達によって悪態語の代わりの知的対応語として使用されるようになったのです。人が非常に愚かである場合や、知識不足のため批評的見解に対して反論することが出来ないような場合には、その人は「それは『陰謀説』だ」と叫ぶことになります。それらは関心を向けるに値しないし、簡単な説明をする値打ちさえない下らない戯れです。

Q: 1996年に、あなたはブラジルの海外債務への支払停止を擁護しました。ブラジルへのあなたの今の立場はどのようなものでしょう?

A: それは少し正確ではないですね。私は何らかの特定の政策を推奨していませんし、そうするほどの大胆さを持ちあわせていませんでした。ブラジルや他の諸国がいわゆる「負債」を支払うべきか否かについての決定には、多くの要因が関わっています。軽く考えることの出来ない決定です。

そうではなく、私はその負債の大部分がイデオロギー的構築物であり、単純な経済的事実ではない事を指摘したのです。実質的な基準では、第三世界の負債は救済することが可能ですし、多くの場合消し去る事が可能です。お金を貸した人がそのリスクを引き受けるべきであり、返済責任はそのお金を借りた人にあるべきであるという資本主義の原則に訴えればの話ですが。借りた人とはブラジルではスラム街の人々や土地を持たない労働者達を意味していません。事実として住民の大部分は関わっていないのです。当然ですが富裕層や権力者達はその資本主義的原則を嫌悪と共に拒絶しています。貸し手は高い利回りを得る事を欲していますが、それに伴うリスクが社会化され、先進国の納税者に転嫁される事を望んでいるのです。IMF[国際通貨基金]の機能の一つは高い利益を得られる融資や投資に対して実質的に「無料のリスク保証」を提供する事なのです。そして借金国の実際の借り手達は資本逃避や税金逃れ、贅沢な輸入品や自分達の壮大さを高める企画など等を好んでいるのです。もし負債が存続可能でなくなれば、彼らはその損害が社会化され、そもそも借金とは何の関係もない大部分の住民にそれが転嫁される事を望んでいます。その転嫁は(貸し手の利益のために)輸出を増大させる構造調整計画や他の手段を通して行われますが、一方で住民を虐げています。それこそがIMFの第二の補完的機能であったのです。

実施されることはないでしょうが、資本主義的原則に訴えることは負債の支払いに大いに効果があるでしょう。負債自体が存在していればの話ですが。そのこともまた明確ではないのです。その理由は、米国によって巧みに考案され、米国の都合がよければ利用されてきた国際法の原則の下では、負債はおそらく「憎むべき負債 (odious debt)」の範疇に属する事になり、その結果、負債は支払う必要がなくなるからなのです。この事は数年前にIMFの常任理事のカレン・リサカーズによって指摘されています。彼は憎むべき負債の原則が「もし今日適用されれば、第三世界の負債の実質的部分を帳消しにする事になろう」と書いています[訳注:Karin Lissakers, Banks, Borrowers, and the Establishment: A Revisionist Account of the International Debt Crisis. Perseus Book Group. 1991

ある場合には、さらにもっと伝統的な機構が存在します。すなわち、国際司法裁判所の判断を忠実に支持する事です。この単純な手段はニカラグアをその負債から救済する事でしょう。

ラテンアメリカでは、資本逃避はしばしば負債とほぼ同じ額なのです。それは負債を支払うさらに別の手段を暗示してくれています。そもそも負債が存在していればの話ですが。

しかし各国が負債に対処するために伝統的法的手段に訴えるべきかという問題は別の種類の問題でしょう。その問題は権力に関係しており、法や道徳とは関係がありません。選択はこの世界でなされなければならず、何らかの学理的空想の世界ではありません。また、この世界は力の支配によって取り仕切られています。正義や法が世界秩序の指導的原則であるといったことは子供達の読む物語や雑誌の中の知識人の批評のページだけの話です。

Q: 今年(2002年)に我々はブラジルの大統領選挙があります。左翼の候補者、ルイース・イナシオ・ルーラ・タ・シルバは投票者の支持を得ており、当選する大きな可能性があります[訳注:選挙に勝利し、20031月大統領に就任した]。しかしながら、不安が存在します。つまり、彼の政治的指向性ゆえに、彼がヨーロッパや北米の富裕国と交渉する際に問題を抱えるだろうと言う事です。あなたは富裕国の政府がブラジルの左翼政権にとって困難な事態をもたらそうとすると考えますか?

A: 歴史が何らかの指針になるとして、もし富裕国政府が他の手段によってその人民主義的指向を持った政府を抑える事が出来ないと感じているとすれば、その事態は事実上確実です。この点に関しては、戦術は変動します。まさにラテンアメリカでいくつかの興味深い歴史的な実例があります。しかしその一般的結論は歴史の中の誤解の余地のない見せしめの一例にすることです。それはまた長年にわたる政策決定に関する内部記録でも一貫しています。もし国家や企業の支配的組識が別のやり方で対応するとすれば、注目すべき事態になるでしょう。これは常に決定的に重要な事ですが、彼らの自国の市民達によって彼らが妨げられる事がない場合にはという条件付です。

Q: 世界の社会政策における新自由主義的介入とはどのようなものなのでしょうか?どのような点でこの構想は政治的プロセスへの一般住民の参加を妨げているのでしょうか?

A: 新自由主義の主要な目的は民主主義を衰弱させることにあります。金融の自由化が民主主義的選択肢の可能性を蝕んでいることはここ六十年間にわたって理解されてきました。それは(主流の経済評論家達の言葉を引用すれば)政府の決定に対して「拒否権」を有する金融業者や投資家による「事実上の議会(virtual parliament)」を作り出していることによるのです。民主主義の衰弱を防止することがブレトン・ウッズ体制(それは新自由主義の開始とともに解体されたのですが)が資本統制と交換比率の規制に基づいていたことの主たる理由であったのです。それらの制約は政府が社会民主主義的な施策を制定することを可能にしてくれていたのです。そしてブレトン・ウッズ体制の消滅は、新自由主義の開始を伴って、そのような調停策の衰弱という予測可能な結果をもたらしたのです。

新自由主義の他の部門にも同様のことが当てはまります。それは基本的に民主主義的選択という人民の領域を削減しようとし、政策決定が説明責任を負わない私的専制企業の手に譲渡されることを求めているのです。現在基本的に秘密裏に交渉されている、「サービス部門の貿易に関する一般協定」(The General Agreement on Trade in Services: GATS)は事実上貿易とは何の関係もなく、民主主義的参加や選択の領域を削減することに大いに関係しているのです。

その協定の真意はエリート階層には十分に理解されています。一般の観衆には何らかの形でもっと柔らかな表現で述べられるでしょうがね。例えば、『ニューズウィーク』誌のデヴィット・ロックフェラーは、彼が強く支持している、「政府の役割を削減する」趨勢について議論しています。彼曰く、この趨勢は「実業界の人々が賛成する傾向があるものである。しかしそのコインの裏側は誰かが政府の役割を担わねばならないことを意味している。そして企業がそれを担う論理的存在であるように私には思われる。あまりにも多くの実業人は単純にこの事態に直面しようとせず、『それは誰か他の人の責任であり、私の責任ではない』と言ってきたように私は考える」。[彼の考えでは]それが一般住民の責任であることなど明らかにあり得ないのです。そんなことは想像することもできないのでしょう。

Q:新自由主義的グローバリゼーションは、アフガニスタンからアルゼンチンまで、世界中にわたる多くの国家的大混乱の原因として非難されています。しかしブラジルの労働党のような政党はその代案が「民主主義的社会主義」と彼らが呼ぶものであると考えています。あなたはこの意見に同意しますか?あなたにとって「民主主義的社会主義」とは何を意味しますか?これまで社会主義的で民主主義的な国家が存在したのでしょうか?

A: 私は、ある特定の形式の社会体制が「世界中にわたる多くの国家的大混乱」に対する決定的な解決策であるとどんな人が考えたとしても疑いを抱きますね。解決策は多数あり多様なのです。その大混乱の原因は多様ですし、それらを改良し克服するための試されるべき、時には従われるべき、多くの異なった道筋が存在するのです。

「民主主義的社会主義」は決して単純な概念ではありません。またその構成要素の一つである、「民主主義」でもありません。最も単純なレベルで考えれば、ある社会は、その住民が自分達に関連する問題について有意義な決定をおこなうことができる限り、民主主義的です。生活の基本的な諸側面に関する決定が、説明責任を負わない私的権力中枢の手の中にある時、また社会が「新聞や報道担当者や他の宣伝とプロパガンダ手段の支配権を通して強化された、金融や土地や産業の私的支配により私的利益を求める企業」によって支配されている時には、民主主義的形式が非常に限られた実質しか有していないのです。このことは長期にわたって認識されていました。私は労働党(の文書)から引用しているのではなく、おそらく二十世紀で最も傑出し尊敬された西洋の社会哲学者である、ジョン・デューイから引用しているのです。 彼の主たる関心は民主主義理論にありました。彼は、慣習的な言い回しで言えば、「アップルパイと同様にアメリカ人」であったのです。実際に、当時の民主主義が深刻な欠陥を持っているという彼の診断やそれを克服するための彼の諸提案は、米国やその他の労働運動の起源に遡る思想(や行動)と共鳴していたのです。ついでながら、それらの運動はその大部分において急進的な知識人達の疑わしき支援なしで発達したのです。

その運動と同様の見解を取り入れつつ、デューイは、もし民主主義的形式が現実的実質を有することになれば、産業は「封建的社会秩序から」労働者達による管理と自由な連帯に基づく「民主主義的社会秩序へと」変化されなければならない、と論じています。それこそが社会主義の中核的概念なのです。もしそれが起こらなければ、彼がさらに述べているように、政治は「大企業によって投ぜられた影」のままなのです。また「その影を希薄化することはその実態を変化させることにはならない」のです。私がデューイを引用したのはそのような構想が民主主義的原則を熟慮した人々には第二の天性になっていること、またそうあるべきであることを指摘したかっただけなのです。また前述したように、それらの構想は働く人々や民衆運動の中で長期にわたってごく普通に見られるものだったのです。従って、それらの構想が労働党によって取り入れられ、彼らがブラジルの特定の問題や状況と考えているものに適合されることは極めて適切なことなのです。

Q: 911日以来ここ数ヶ月で多くのことが変化してしまいました。128日のAFSC [訳注:American Friends Service Committee:アメリカ合衆国フレンド教徒奉仕委員会]の会合であなたは、もし現在の趨勢が存続するならば、「人類の生存が危険に晒されていると言っても誇張では全くない」と語りました。すでに進行中の主要な趨勢を指し示し、何故我々が危険に晒されているのかを説明していただけますか?

A: 「進行中の主要な趨勢」という問題は私にはあまりにも広大すぎて包括的に回答を試みることは不可能ですね。その趨勢の中の二つは、ほぼ同時期に開催されるダボス会議とポルト・アレグレでの会合によって代表されている「グローバリゼーション」の鋭く異なった二つの計画でしょうね。グローバリゼーションについて人が考えているそれ以外の事柄はさて置き、ダボス版のグローバリゼーションはまさに人類の生存を脅かすものです。理由の一つは、そこに内在する原理が、もし真面目に受け取るならば、我々の孫達のために環境を破壊することが極めて合理的であるという結論を導くものなのです。我々が環境を破壊することによって現代のイデオロギーの中で賞賛されている意味での「富の最大限の合理的活用者」として行動すればの話ですが。ブッシュが京都議定書を無視しているとして非難されているのは驚くべきことです。彼は賞賛されるべきなのです(例えば『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌では彼は実際に賞賛されています)。疑いなく危険な狂信者達ですが、少なくとも自分達が説く教義を受け入れるくらいは誠実です。

もう一つの理由は、政策立案者達が活動の基礎としている「予想される事態」が提供してくれます。例えば米国の諜報機関は「グローバリゼーション」(この場合ダボス版のそれを意味しますが)が「持てる物」と「持たざる者」の間の分離を増大させるであろうと予測しています。そして軍事立案者達は、同じ予測を採用しつつ、「持てる者」の富と権力を維持するために、手に余る「持たざる者」を統制するために利用可能な巨大な破壊手段を所有することが必要となるだろう、と実しやかに論じているのです。それこそが米国の軍事予算が次の十五カ国を足した軍事予算より上回らなければならない理由なのです。これは、軍事予算の巨大な増額を強引に通すために非常に露骨で吐き気のするやり方で住民の恐怖と苦悩が利用された、911日の以前の話なのです。つまり、この軍事予算の増額はテロリズムに対してはまったく不適切な対応なのですが、他の目的には有用なのです。

これらの予測は宇宙軍事化計画への公式の弁明であり、我々全てを破壊するかもしれない結果を伴っているのです。起こりえる結果が政府内外の戦略分析家達によって極めて正確に理解され、述べられています。しかし彼らの大半や政府や企業の政策立案者達はそのような事態の可能性は、短期的利益と権力を極限まで拡大するという超越的必要性と比較すれば、それほど重要なこととは見なしていないのです。

明確にするために付言すれば、私は右翼について語っているのではありません。彼らはもっと遥かに過激です。私はクリントン政権時代の文書や計画について話しているのです。ついでながら、それらは公然と公開されているものなのです。人はこの全てについて、それがふさわしい新聞の第一面に掲載するのではなく、目を閉じることを選択することが可能です。それは選択の問題であり、必然性の問題ではありません。そして我々が未来世代によって感謝されることになる選択ではありません。

Q: 911日の攻撃の後に北米の報道機関による極めて感情的な報道が行われ、それが世界中の報道機関によって再生産されました。犠牲者たちの名前や顔、またその家族達の苦悩が余すところのないまでに示されました。同様のことはアフリカやイラクの戦争報道では起こっていませんし、アフガニスタンの戦争報道でさえ起こっていません。それらの違いは部分的には世界の世論があの出来事の中で米国に与えた支持が原因であるとあなたは考えますか?

A:米国やその同盟国によって実行され支援された国際的テロ作戦の場合に同じことが起こっていないという事実の方がもっと適切ですね。残念なことなのですが、それらは911日の犠牲者数よりも遥かに大きいことが稀ではなかったのですから。そのことはラテンアメリカの人々は間違いなく良く知っていますし、彼らだけのことでは全く無いのです。911日の残虐行為は歴史的に唯一のものでしたが、残念ながら、その規模がという意味ではなく、その標的がという意味でです。911日の残虐行為はヨーロッパとその子孫達が他の地域に対して実行している残虐行為と同種のものです。しかし、初めて銃口が反対の方向に向けられたのです。

しかしあなたが挙げた疑問は述べられた形のままで回答することはできません。なぜならその仮定が正確ではないからです。第一に、米国の世論は新聞や雑誌の知識人の意見で示されているものよりも遥かに多様で微妙です。そのことはナショナル・プレス[訳注: Washington, D. C. 中心部にある報道機関のためのビル]の中でさえ報道されました。世論を調査する努力が払われた時の幾つかの機会においてですが、その調査対象の中にはニューヨーク市も含まれていました。さらに言えば、世界中の世論は民間人に損害を与える軍事行動に大部分が反対していたのです。つまり、立案され実行に移された[アフガニスタンでの]軍事行動に対してです。そのことは、国際的世論調査でさえ、始めから明らかでした。国民は犯罪者達を捜査し罰する行動を支持していたのです。しかしそのことは全く異なった問題です。そして世界の市民達は、権力者達の残虐行為の従来の犠牲者達が、911日のそれよりも遥かに越える犯罪の事例でさえ、非常に異なった形で扱われているという事実を一般的に十分認識していましたし、しばしば極めて率直に語られました。そのような犯罪の事例は、不幸なことなのですが、ラテンアメリカではもちろんですが、大部分の人々が十分承知しているように、容易に列挙することができるのです。

Q: 911日以降、米国は幾つかの国々に対して立場を変えました。この戦略の最も重要な結果はどのようなものなのでしょうか?

A: 911日以降、世界中の凶悪で抑圧的な国々が直ちに認識したことは、彼らが「反テロ連合 (coalition against terror)」に参加することにより彼らの犯罪への米国の公認を得ることができるということでした。そしてそれこそがまさに彼らが行っていることなのです。ロシア、中国、ウズベキスタン、トルコ、イスラエル・・・・極めて長い一覧表です。同様の事態は米国や英国や他の諸国にも当てはまります。そこでは、より粗暴で抑圧的な国内勢力が国民を支配する国家権力を拡張するために、同じ口実の下に、この機会を利用しているのです。それらの結果がどの程度実質的なものになるかについては誰も答えることができません。いつものことなのですが、それらは[我々の]行動の問題であり、怠惰な推論の問題ではないのです。

しかしながら、一つの結果はかなり明白です。すなわち、米国はこの機会を利用して、タリバン政権とほとんど違いのない諸国家と同盟関係を形成し、戦略的な利点はもちろん、その地域のエネルギー資源や他の資源のより確固とした支配を得ることを意図し、中央アジアでの軍事的プレゼンスを確立しようとするでしょう。ロシアや中国はそのことを決して快くは思わないでしょう。イランのようなもっと小さな国家は無論です。

Q: 911日以来国際関係はどのように変化したのでしょうか?

A: 911日は歴史的出来事でした。その残虐行為の規模という点ではありません。嘆かわしい事ですが、それはごくありふれたことなのです。そうではなく、銃口が向いている方向という点で歴史的出来事なのです。米国の歴史の中で、英国人が1817年にワシントンを焼き払って以来、国の領土が(植民地ではなく、国の領土です)攻撃下にあったこと、あるいは脅威の下にあったことさえ、今回が初めてのことなのです。私はこのほぼ二百年にわたり[米国によって]他の地域に対して行われてきたことを詳しく述べる必要は無いでしょう。

「その故国」であるヨーロッパでは、変化はさらにもっと劇的です。ヨーロッパは、赤子にお菓子を与えるようなやり方で、世界の大部分を征服したり占領したりはしませんでした。しかしインドがイングランドを攻撃したことはありませんし、アルジェリアがフランスを、コンゴがベルギーを攻撃したことはありません。テロリズムとは我々彼らを扱う通常の方法なのです。つまり、テロ行為は米国に対して向けてられてはならない事になっているのです。

911日以来鳴り響いている精神的打撃は完全に理解可能なものです。例えば、英国防衛参謀本部長である海軍総司令官マイケル・ボイス卿が公式の米・英の政策を宣言し、世界の指導的新聞で大々的に取り上げられた時には、懸念は無論、関心さえ欠如しているのです。彼はアフガニスタンの人々に「彼らがその指導体制を変えるまで」破壊的攻撃に晒されることになるだろうと警告したのです。これは、米国法で定義させているように、国際テロリズムの教科書的見本なのです。

その政策が巨大な数の人々を(彼らの見積もりによると数百万の人々を)餓えや緩慢な死という深刻な危機に至らしめることになるという確実な予測が伴っていたにもかかわらず、米国と英国がその政策を実行したとき、懸念や穏やかな悲嘆さえも存在していないといった事態も、同様に理解可能なことです。911日とその余波という二つの事例において、その反応は、歴史がその通常の道筋を辿ることになっているという前提に基づけば、自然なものです。すなわち、我々彼らに対し言語を絶する残虐行為を実行し、その一方で知識人階層が自分達とその指導者達についてその気高さを賛美するという道筋です。そのような事態は、現実の世界の中では、歴史の多くを占めているのです。

911日のあと、米国は、二十年前のレーガン政権のレトリックと同じレトリックを採用し、「テロリズムとの戦い(war on terrorism)」を再宣言しました。レーガン政権は、職務に就くとすぐ、米国の国外政策の中核は「テロリズムとの戦い」になるだろうと宣言しました。それもその最も有害な形式である、国家に支援された国際テロリズムです。米国は前例の無い規模で国際テロリストネットワークを構築することで「テロリズムとの戦い」を戦いました。そのネットワークを使って中米、アフリカ、西アジアやその他の地域に致命的な結果を与え、国際司法裁判所による米国の国際テロ行為への有罪判決をもたらしました。その判決は国連安全保障理事会によって全ての国家が国際法を遵守すべきことを要求する決議文の中で支持されましたが、米国によって拒否権が行使されたのです。

南米にとって、この「テロリズムとの戦い」は米国に支援された国際テロリズムの連鎖的波及の継続に過ぎませんでした。それはジョン・F・ケネディーが1962年にラテンアメリカ軍の使命を「西半球の防衛」から「内的安全保障」へと変換した時に開始されたのです。その言葉の意味やそれがどのように実行へと翻訳されたかについて詳しく述べる必要は無いでしょう。ブラジルでは確実にそうでしょう。

最初のテロリズムとの戦いの指導者達はその現在の再来においても突出した役割を果たしています。例えば、ジョン・ネグロポンテは国連において外交努力を指揮していますが、二十年前にホンジュラスの「占領地軍司令官 (proconsul)」として仕えていたとき国際テロリズムについて学んだのです。彼はニカラグアへのテロリストを指揮し、そのため彼の政府は最高の国際問題の権威者達によって有罪の判決を下されたのです。あるいはドナルド・ラムズフェルドは、彼の言葉を用いれば、「テロリズムを叩き潰す」戦争の軍事部門を監督していますが、レーガンの中東地域担当の特別外交使節として彼の[現在の]商売を学んだのです。その地域でレーガン政権とイスラエルの同盟はその当時の国際テロ行為の賞金を容易に勝ち取ったのです。

このいずれからも何らかの説明を引き出されることはありません。それはちょうど今日の権力者達による巨大な国際テロリズムの明確な主張と実行に対して何の反応もないのと同様です。歴史がどのように進行することになっているかのそのような支配的な慣習が与えられれば、人は何かが変化していると期待してはならないのです。

もちろんいくつかの変化は存在します。米露関係は少なくとも現時点ではより友好的になりました。なぜならロシアは、そのチェチェンでの恐ろしいテロ犯罪に対する支配的超大国[米国]からの承認を得るために「反テロリズム戦争 (war against terrorism)」に熱心に参加しているからです。中国も同様の理由から喜んで参加しています。実際に、世界中で、粗暴で野蛮な勢力は、彼らの行動指針を実行するための「絶好の機会」を持ったと認識しています。彼らは自分達もまた国際テロリズムの犠牲者になるのではないかと恐れている人々の恐怖心や苦悩を露骨に利用しているのです。

911日の余波は、世界が経済的用語では三極的であるかもしれないが、軍事的用語では圧倒的に一極的であることをこれまでよりもいっそう確実に証明しました。この不均衡は急激に増大しています。ワシントンが軍事支出をさらに増大させるためにこの機会を利用しているためです。米国の軍事支出は他の全ての重要な国々を合わせた軍事支出をすでに小さく見せていたにもかかわらず、彼らはニュー・フロンティアを、特に米国の独占である宇宙戦争を、拡張しようという野心的な計画を抱いているのです。

しかしこれらはみな以前から続いている趨勢の継続なのであり、本質的に新たな方針ではありません。

Q: 911日以降、世界は変わったのでしょうか?あなたの意見では、悪い方へでしょうか良い方へでしょうか?そしてそれは何故でしょうか?

A: 911日は歴史的出来事でした。何百年にもわたって、ヨーロッパとその分家達は世界の大部分に大規模なテロと残虐行為を繰り返してきました。彼らは初めて恐ろしい残虐行為の行為者ではなく標的となったのです。それに対する反応は、驚くべきことではありませんが、極めて暴力的なものでした。もちろん主として米国とその若輩の相棒である英国によってです。その両国は「劣った人種 (lesser breeds)」への対処法では豊富な経験を持っているのです。

西洋の知識人達が次の事実に「気付かない」ためには多くの訓練を要します。すなわち、いわゆる「テロとの戦い (War on Terror)」が、最高の国際問題の権威者である、国際司法裁判所と国連安全保障理事会によってその国際テロ行為に有罪を宣告(決議文では米国によって拒否権を行使され、英国は白票)された唯一の国家によって指導されていること。またそれらの特定のテロ犯罪ゆえに有罪判決を宣告される一方で、さらに悪質なテロ犯罪に専念していた人物と全く同一の人物が第二の「テロとの戦い (War on Terror)」において指導的な役割を果たしていることです。第一の戦いは二十年前にレーガン政権によって全く同じレトリックを使って宣言されました。その戦いがどのように実行されたかを述べるために時間を費やす必要はないでしょう。特にここラテンアメリカでは。

今回の戦いには異なっているものは全くありません。アフガニスタン市民への攻撃は野蛮で破壊的なものでしたが、特別の関心を持たれずに過ぎています。なぜならこれこそが単純に歴史的規範なのです。そして最初の「テロとの戦い」の場合と同様に、第二の「テロとの戦い」は自国の残虐行為への公認を求めていた諸国家によって熱心に参加されました。例えば、ロシアは熱狂的協力者です。チェチェンでの自国のテロ行為を米国が支持してくれることを求めているからなのです。また世界中の粗暴で抑圧的勢力も自分達の犯罪を拡大し、反動的行動指針を強制する「絶好に機会」と見なしています。

この現象は世界中に広がっており、様々な形式を取っています。それは人権団体によって激しく非難されていますし、かなりの民衆の抵抗が存在します。しかし一般的に言えば、911日のテロリストによる残虐行為の結果として、世界が悪い方向に変化してしまったことを否定するのは、少なくとも現時点では、困難です。犯人達は、911日の恐ろしい犯罪に関わっていたのみならず、直ちに予測されたように、世界中の貧しく苦しんでいる人々に対しても、また民主主義や人権に対しても深刻な打撃を与えたのです。

Q:米国の覇権に対抗するような新たな勢力が、また米国が影でソ連と十年にわたり持っていたのと同様の情況を再建するような新たな勢力が世界に存在するのでしょうか?

A: ソ連の崩壊以前には、二つの世界の支配者が存在しました。世界経営において、遥かに強大な米国と、事実上若輩の相棒として機能していたソ連です。その時代の戦争は超大国間のものではありませんでした。むしろ、両者は自分達の勢力範囲を支配するためにテロや暴力を手段とすることの口実として相手の脅威を利用していたのです。そのことは内部文書の証言にも様々な事件の記録の中にも非常に明白に示されています。西側諸国にとって、冷戦とは、現在「南北摩擦」と時々呼ばれているもの、そしてかつては「ヨーローパの帝国主義」と呼ばれていたものの継続であったのです。

それゆえ、冷戦後の政策はかつて遂行されたのと全く同様に大きな変化を伴わずに持続しています。事実、「東西摩擦」はその根元で多くの南北摩擦の特徴を有していました。両超大国が他方の勢力範囲の摩擦を冷笑的に利用していたのは事実です。しかしそれは別の問題です。このシニシズムのある側面が現実にここ数ヶ月の世界情勢の最も顕著な特徴となったのです。意図的に盲目になっている人だけが(現在の敵達を含めて)急進的イスラム主義の起源を、誰がそれを養育して育成したのかを、また何故彼らはそのような行動を起こしたのかを知らないのです。

この種の体制が「再建」されるのを見たいと思う人は明らかにいないでしょうし、幸運にも、それが起こっているという徴候はありません。長年にわたって(ここ数十年間で極めて明確に)実際に展開している事態は経済的には三極的で、軍事的には一極的な世界秩序です。

ヨーロッパとアジアは経済や他の点で米国とほぼ同等です。しかし米国は軍事勢力としてますます匹敵するもののない状態になっています。国際関係の支配的な学派(「現実主義者」と呼ばれています)は一般的にその単独的立場に対抗するために複数の連合体が発達することを期待しています。それは全くあり得ることです。しかしながら、私の見解では、その理論的解釈は大変不十分で、実験的証拠が非常に曖昧であるため、その予測はあまり信頼することができるものではありません。そのような国家優先的接近法では考慮されていない、別の諸要因の方が遥かに重要です。例えば、ダボスやポルト・アレグレで連合している人達です。

道理をわきまえた人々が望むべきものは、私が思うに、全く異なった種類の世界体制でしょう。その中心的な重要性を有する問題(例えば、「グローバリゼーション」)において、米国の大部分の住民は「米国の覇権」に反対しています。住民が反対していることこそが政策立案と実行が秘密裏に(すなわち、一般住民から秘密裏に)行われなければならなかった理由なのです。富裕層や権力者達はそのことについて全て承知していますし、そのことに直接的に巻き込まれているのです。国際社会での重要な諸問題は米国と他の諸国の対立ではありません。その諸問題は国家体制の領域を越えているのです。このことはダボスに集う人々とポルト・アレグレに集う人々の両方に当てはまります。それらの人々はグローバル体制の異なった要素を代表しているのです。

Q: あなたは「巨大な国家は望むことを行なう。一方小さな国家は受け入れなければならないことを受け入れる」というトゥキュディデスの格言を引用します。異なった大陸や国々についての現在の情況が及ぼす長期的影響とは如何なるものでしょうか?南アメリカやブラジルへのその影響はどのようなものになり得るのでしょうか?そしてそれは何故でしょうか?

A: トゥキュディデスの格言は、古い時代の武力について語っているのであって、それをどのようなものにも適用できるわけではありません。なぜなら文明が進歩したからです。文明の進歩は人民が国家の暴力を抑制させる事態をもたらしました。望んでいたよりも遥かに少なくではありますが、きわめてはっきりしています、特に前世代においては。世界の住民の大半には、そのような抑制を拡大することによって、また国家権力とそれに密接に関連する私的権力中枢を縮小すること(私の意見では、それらを取り除くこと)によって、得られるものがたくさんあります。そのような事態が拡大すればするほど、トゥキュディデスの格言はますます当てはまらなくなるのです。

ポルト・アレグレ方式のグローバリゼーションは小さな国家を保護する主要な要因と成り得ます。大国であれ小国であれ、あらゆる国家の住民にとっても同様です。その重要な要因についてはさて置き、南と南の協力[訳注:発展途上国間の協力]は「小さな国」(人口が少ないという意味ではなく、富と暴力の手段の支配下にあるという意味です)の防衛手段を提供する独立的要素に成り得ます。

Q: あなたは米国が第一級のテロリスト国家であると語っています。あなたは米国が現在異なった海外政策を考察していると感じますか?あなたは可能な肯定的変化が見えますか?

A: 私がその様な言い方をしている唯一の人物であるように述べるのは誤解を招くことになります。私は国際司法裁判所と国連安全保障理事会の判断を繰り返しているに過ぎませんし、「テロリズム」に対する米国公式の定義を米国政府の行動に適用しているに過ぎません。米国の行動がテロリズムであることには議論の余地が全くありません。

従って、私は文字の読めるあらゆる人が知っていることを裏書しているのです。たとえその人がそのことを言うのを好んでいないとしても。

肯定的な変化がありえるのか?もちろんです。事実、ずっと存在し続けています。ジョン・F・ケネディーが四十年前に、目に見える抵抗や関心さえも喚起されることなく、南ベトナムに対して行ったような侵略を、現在どんな大統領であろうとも企てることなどとてもできないでしょう。米国は遥かに文明化したのです。それは1960年代の、またそれ以降の年月のさらにもっと大きな、活動家達の運動の結果なのです。それらの趨勢が持続してはならない理由など存在しません。それらの趨勢は歴史の大部分にわたって存続してきたのですから。幸運にもそのおかげで我々のような人々が今日生きているのです。

Q: 米国政府はアフガニスタンでの戦争を「反テロリズム戦争 (the war against terrorism)」と呼んでいます。あなたはこの種の軍事行動がテロリズムに対して効果的であると思いますか?

A: 幾つかの基本的事実がその問題と関連するように思われます。「反テロリズム戦争 」は、国際司法裁判所(International Court of Justice: ICJ)により国際テロ行為の罪状で有罪を宣告され、またICJの裁定を前提に全ての国家が国際法を遵守することを呼びかけた国連安全保障理事会の決議文に拒否権を行使した、唯一の国家によって宣言(実際は再宣言)されたのです。

その戦争への最も熱狂的参加者の中にはテロリスト残虐行為の驚くべき記録を有する他の諸国家がいます。例えば、ロシアは、支配的超大国がロシアのチェチニアでの背徳的戦争を是認してくれることを期待して、喜んで参加しました。中国も、同様の理由から、行動を共にしています。トルコは軍隊を提供した最初の国でした。トルコの首相は、ワシントンの断固たる支援への感謝を表してそのような行動をしていると説明しました。その支援とはトルコ領内のクルド人住民へのトルコによる極めて凶悪な戦争への支援なのです。その戦争は1990年代の中で最悪の民族浄化と残虐行為の幾つかに挙げられるものですが、クリントン政権からの大量の武器提供に依存していました。一覧表を見ていけば、他にも多くの例があります。

私は「再宣言された」と言いましたが、その理由は最初の「反テロリズム戦争 (war against terrorism)」が二十年前にレーガン政権が職務に就いた時にその政権によって宣言されていたからです。それは、今日のレトリックと非常に類似したレトリックを使用し、またかなりの人事上の連続性を伴っています。レーガン政権は中東地域で大規模なテロリスト残虐行為の主要な後援者だったのですが、レーガンの中東担当の特別外交使節[ドナルド・ラムズフェルド]は、現在再宣言された戦争の軍事部門の担当者になっています。国連での外交部門は、ホンジュラスの「占領地軍司令官」であった人物[ジョン・ネグロポンテ]によって指導されています。彼はニカラグアへのテロリスト戦争を組織化する任務に責任を負っていました。その戦争のため米国は最高の国際問題の権威者達から有罪を宣告されました(もちろん、何の効力のありませんでしたが)。レーガン政権期の「反テロリズム戦争」の他の指導的人物達もまた今日のその再開の中で重要な役割を果たしています。1980年代に、彼らは前例のない規模で国際的テロリスト・ネットワークを構築することによって彼らの大統領が「テロリズムの邪悪な災い」と呼ぶものと戦ったのです。多くの人命が犠牲になったことを私がここで再考する必要はないでしょう。ラテンアメリカや他の地域でのそれ以前の偉業[搾取]を再考する必要がないのと同様です。その物語がほとんど変化せずに続いているのです。それは米国からの武器や軍事訓練の受領者達と主要な国際組織による人権記録とを比較するだけで十分でしょう。国務省による人権記録と比較することだけでさえ十分です。規模を別にすれば、米国だけの話ではないのです。

この復活した軍事行動はその功罪によって評価されなければなりません。しかしそれがどのようなものであれ、真面目に「反テロリズム戦争」と呼ぶことなど不可能です。ジョージ・オーウェルはそのような考えに墓の下で嘆いていることでしょう。

例えば、『米国法典 (US Code)』と『軍事教範 (Army Manuals)』の中にテロリズムの公式の定義があります。それはみごとな定義なのですが、使用されることはあり得ません。なぜなら、もしそれが適用されるなら、容認できない回答をもたらすことになるからです。(ほんの一部の例に過ぎませんが)たった今述べたような人達です。従って、「テロリズム」という言葉は、実践上、我々がどのような人物であれ、彼ら我々に行なうテロ行為を指し示しているのです。そのことはおそらく歴史的に普遍的なものです。最悪の殺人者達でさえその解釈を採用していました。例えば、ナチスは自分達が「外国から向けられたテロリストパルチザンから」住民や合法的政府を防衛していると述べていましたし、またそう考えていたのは疑いありません。ラテンアメリカのサザンコーン[訳注:アルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ・チリの総称]での最近の実例を述べるまでもありません。

そのような伝統を心に留めれば、「テロリズム」に対する軍事行動はもちろん効果的であり得ます。ナチの「反テロリズム (counter-terrorism)」は効果的でした。まさにあなた方が出版している場所やその近くの地域に劇的な実例が存在します。

Q: ここ数年において米国が国外紛争に対処する方法で何が変わったのでしょうか?

A: もちろん、第二の(そして遥かに弱い)超大国の崩壊に伴って、幾つかの変化がありました。そのことは戦術の再調整と新しい口実をもたらしました。しかし政策の大きな変化をもたらしてはいません。そのことは直ちに明らかでした。ベルリンの壁の崩落直後、米国はパナマを侵略し、おそらく何千もの人々を殺害し、国連安全保障理事会の二つの決議文に拒否権を行使し、銀行家と麻薬取引業者の傀儡体制を就任されました(議会や他の機関の報告書がすぐに明らかにしたように、麻薬取引は急激に増加しました)。その目的は反抗的になった残忍な凶悪犯[訳注:マヌエル・アントニオ・ノリエガ]を拉致するためだったのです。彼はフロリダにおいて彼が主として犯した犯罪の判決を下されましたが、その犯罪は彼がCIAの従業員名簿に掲載されている間のものであり、彼が不正行為と暴力によって人気をさらった選挙での誠実さゆえにレーガン政権が賞賛していたものだったのです。

この全ては歴史の脚注に置かれている出来事としてはごくありふれたものです。しかし二つの違いが存在します。一つは、その口実が異なっていました。パナマの侵略は「西半球を侵略し我々を破壊することを求めているソビエト帝国の前哨地点に対する防衛のため」ではなかったのです。むしろ、それはヒスパニック系麻薬取引業者に対する防衛のためだったのです。レーガン政権高官であったエリオット・アブラムズがすぐ述べたように、この行動は、世界のどこかでロシア人による何らかの反応があるかもしれないという懸念を抱くことなしに、米国が武力に訴えることができた初めての事例であったのです。

同じことは次の武力行使にも当てはまりました。それは遥かに残忍な無法者[訳注:サダム・フセイン]に対するものでした。米国と英国は彼が最悪の残虐行為を行なっている間中、彼に喜んで支援していましたが、彼は「不服従」という彼の初めての深刻な犯罪のために罰せられねばならなかったのです。イラクでの戦争はロシア人に対する防衛としては呈示されませんでした。そして米国と英国は、何らかの抑止力が存在するかぎり、あえて大規模の陸上部隊を展開しようとは決して思わなかったでしょう。同様のことは現在まで続いています。

一般的な戦略的姿勢における変化も存在します。そこには、伝統的な口実の誤りが興味深く容認され、本当の敵が南[訳注:第三世界]の独立志向的民族主義であることが公然と承認されています。その多くは長年にわたって内部文書から明らかだったのですが、ソビエトという口実が姿を消してしまったので、それが今や公然と承認されたわけです。核戦略もまた変化しました。ペンタゴンの用語を使えば、「武器に富んだ」ソビエト連邦の代わりに「標的に富んだ」南に向けられた武器をもっと強調するようになったのです。

私はこのことに関して、政策立案者の豊富な文書記録と実際の出来事の両方を、別の場所で徹底的に詳細に再考しましたので、ここでそれを試みることはできません。[訳注:詳細はNoam Chomsky, Deterring Democracy. (Vintage, 1992) World Orders, Old and New. (Pluto Press, 1997)等を参照]

Q: 世界は国際的テロリズムに対してどのように対応すべきなのでしょうか?

A: 国際的テロリズムは犯罪ですし、恐ろしい犯罪であることが稀ではありません。犯罪に対する適切な対応は犯罪者達を見つけ出す捜査です。彼らは見つけ出され、公正な裁判に引き出されなければなりません。そのことは路上での強盗であろうとも、911日の犯罪であろうとも、同様に当てはまります。あるいはその行為者達について如何なる疑いも存在してこなかった国際的テロリスト犯罪についても同様です。長い長い一覧表があるのです。

少しだけ例を挙げれば、ブッシュ元大統領によるパナマのエル・チョリロ地区への爆撃です。おそらく何千もの人々が殺されました。あるいはクリントンによるスーダンの製薬工場への爆撃です。行われたいくつかの分析(スーダンのドイツ大使館、信頼できる近東財団の地域局長)によると何十万人もの死者をもたらしました。またニカラグアへのテロ戦争は何十万人もの死者を出し、国をおそらく回復できないほどに破壊しました。これは国際問題の最高の権威者達の判断に照らして、議論の余地の無い事例です。また国家に支援された国際テロリズムというさらに悪質な犯罪があり、容易に思い浮かぶことです。更に続けて、米国に支援された国家テロリズムの最初の標的であった、ブラジルでの詳細を述べる必要などないでしょう。それはケネディーがラテンアメリカ軍の役割を方向転換し、彼の政権が1964年の軍事クーデターのための基盤を固める行動を開始した後に起こりました。そのクーデターは彼の特使であったリンカン・ゴードンによって「二十世紀半ばにおける自由の唯一の決定的勝利」であった「民主主義的反乱」として賞賛されました。まあ時が経って、その恐ろしい結果が明らかになったのですが。

それらの事例の一つとして、疑わしいテロリストに、その犯罪行為が明白である人物に対してさえも、犠牲者達が暴力に訴えて処罰するいかなる道徳的・法的権利を持ってはいません。そして、大規模な国際テロリズムへの米英の公式的唱導のような、一般住民に疑わしい犯罪者達を引き渡すことを強制するために、一般住民を処罰する権利など明らかに存在しません。例えば、キューバは、1959年以来おそらく国家に支援された国際テロリズムの主要な標的であったのですが、米国に対して爆撃や生物テロを実行する権利を持っていません。ハイチもまた同じことをする権利を持っていません。ブッシュ一世政権及びクリントン政権から暗黙の支持を受けていたクーデター政権下に、何千もの人々を残酷に殺した準軍事的部隊を指導し、有罪判決を受けた犯罪者送還を米国が拒絶したにもかかわらずに。さらに悪質な事例でも、その行為は合法的ではないでしょう。

西洋が国際テロリズムの原因である場合、そのような対応は常軌を逸したもの、卑劣なものと見なされることでしょうし、そう見なすことは適切なのです。もしある施策が敵に適用される際に合法的であると見なされる場合、我々はその施策が我々にも同様に適用されることに同意(実際には主張)しなければならないのです。これは最も初歩的な道徳的自明の理です。権力者や特権を有する者がこの最低限のレベルの道徳的高潔さに拍手喝采することが出来た時、その問題を真剣に議論することが可能になるでしょう。そのような革命的変化が起こるまで、我々は何千年も前にトゥキュディデスによって描かれた世界に生き続けることになりましょう。その世界では、有力者や権力者が自分の望むことを行い、弱者が耐えねばならないことに耐えており、一方で世俗的聖職者達が彼らの指導者達への賞賛の合唱を指揮し、世界の指導的な新聞の尊敬されている解説者達の表現を借りれば、彼らの海外での努力の「気高い局面」とその「高徳な輝き」を賞揚しているのです。

すさまじい西洋のプロパガンダ組織の最も顕著な勝利の一つは、それらの事実に基づく道徳的自明の理でさえも、述べる必要が存在する事態をもたらしていることです。それらの自明の理が、特に伝統的な犠牲者達の間では、何らの解説をする必要なく自動的に理解されるであろうことを人は期待するかもしれません。不幸にも、それはそのようにはなっていなく、更に言えば、なっていないことがそれほど稀ではないのです。奴隷制、女性や労働者への抑圧、また他の人権侵害は部分的には堪え忍ぶことが可能だったのです。何故なら抑圧者側の価値観が様々な形で犠牲者側に内面化されていたからです。このことは「意識を高めること(consciousness raising)」が解放への第一歩であることが稀ではない理由なのです。

Q: 北アメリカ人の反テロリスト軍事作戦の背後にはどのような経済的利益が存在しているのでしょうか?

A: 「テロリズムとの戦い (war on terrorism)」が、レーガン政権によって、20019月のその復活版とほぼ同じ用語を用い、多くの同一の主要な参加者によって、二十年前に宣言されたことを思い出して下さい。あらゆる重要な政策問題がそうであるように、「経済的利益」が存在します。しかしそれは主として他の政策を覆い隠すものとして役立っているのです。まだ嘲笑を伴わずに「共産主義の脅威」に訴えることが可能であった時にその言葉が果たしたのと同じ様に。

最初の「テロリズムとの戦い」は主として中米に対する大規模な国際テロ行為の口実として使われました。その地域だけではなく、中東やアフリカ南部、アジアに対してもですが。そして現在の「テロとの戦い」は同様の目的のために使われていますが、中央アジアでの米国の強力な軍事的プレゼンスを確立するためでもあります。その地域がエネルギー資源と戦略的位置ゆえに重要だからです。

このような事情はテロリストの脅威の存在を否定するものではありません。それはまさに実在します。何百年間にわたって、ヨーロッパとその派生国はその関わった国際テロ行為を事実上独占していました。つまり、インドがイングランドを攻撃しなかったし、コンゴがベルギーを、またフィリピンが米国を攻撃しませんでした。他も同様でした。それが今、限られた方法だけとはいえ、変化したのです。ヨーロッパとその派生国は今や初めて標的にも成り得るのです。その意味で、911日は歴史的出来事でした。その残虐行為の規模においてではなく、銃口が向けられている方向においてです。

Q: あなたは北米の軍事産業がブッシュ大統領の国外政策に対してどのような影響力を持っていると考えますか?米国の好戦的行動は、ブッシュとこの産業部門との関係が原因で、今後も続くと考えますか?

A: 「軍事産業」は事実上ハイテク産業であるということを憶えておくべきです。有名な「新経済 (new economy)」は主として軍事支出に支えられて発達したのです。それはコンピュータや電化製品、電気通信や(インターネットを含めた)情報技術、オートメーション、レーザー、「民間」航空機(それゆえ巨大旅行産業)、コンテナ化など等を含んでいるのです。「郊外化 (suburbanization)」という大規模な社会工学的プロジェクトでさえ、大きく言えば、「国防 (national security)」という口実の下に実施されたのです。このことは米国が、誤ったラベルが貼られた「自由貿易協定」に、「国家安全保障控除 (national security exemptions)」を強要する主たる理由なのです。それらの控除は経済への国家介入の巨大体制が新自由主義的原則に妨げられる事なく存続することを可能にしてくれるのです。一方でその原則は数世紀にわたる伝統的やり方で、大部分は貧困層への武器になっているのです。

もちろんペンタゴン体制はそれとは別の目的をもっていますし、その目的については極めて率直です。例えば、米国宇宙司令部 (The US Space Command)は、過去において陸軍と海軍が米国の商業的利益と投資を守るために発達したことを正確に指摘しつつ、宇宙を軍事化するための計画を同じ目的のために必要なものとして正当化しています。そして、ブッシュ政権とこの部門との関係は他の大統領のそれとは幾分違いますが、それほど大きな違いはありません。全ては同じ基本的な目的に関連しているのです。すなわち、全世界を支配すること、そして、権力と利益を民営化しコストとリスクを社会化する(「現に存在する資本主義」)ための有力な国家経済部門を保持することです。

Q: ジョージ・W・ブッシュ大統領は、最近の世論調査が示しているように、正しい時の正しい人物なのでしょうか?

A: その質問は彼が行なっていることが正しいことを前提としていますね。そのような考えは、テロ行為や暴力や大規模な残虐行為に賛成する人々だけが、確かであると思えることです。世論調査に関して言えば、私は注意が必要だと思います。人々は「911日のテロ行為の犯人達に対し武力の使用を支持するか」と聞かれた場合、圧倒的に同意するでしょう。人々が「もし無実の民間人が犠牲になるとしても武力の使用を支持するか」と聞かれた場合、支持する人の数は大変はっきりと減少するでしょう。

さらに言えば、最も注意深い報道記事の読者で、他の独立系の情報源にも信頼を置いている人だけが、米国と英国が大多数の人々を飢餓の淵に(おそらくそれ以上に)追いやることになることを予想しながら軍事行動に着手したことを知っています。何ヶ月にもわたって十分な供給が可能であったにもかかわらず、四ヵ月後になってやっと絶望的に必要とされた食料や他の援助物資の分配が始まったのです。そして主流のメディアでさえ、アフガニスタンが軍閥の支配に逆戻りしつつあり、その軍閥は90年代の初頭に住民の大部分がタリバンを歓迎した程の非常に恐ろしい犯罪を行なったことを報告しています。

我々は戦争立案者の最悪の予測が正確であったかどうかを知ることはないでしょう。それらは西洋人の犯罪であるために調査されていないからです。西洋エリート層の見解では、どれくらい多数の人々が最初の米国主導の「テロとの戦い」での犠牲者となったかについて、知っていたり心配していますか?あるいは、一つの小さな脚注を述べれば、エル・チョリロ地区の一回の爆撃でどれくらい多くの人が殺されたのかについて、またそれがパナマ人達が主張しているように何千人の規模であったのかについて、彼らが知っていたり心配したりしていますか?それが重大な問題なのですか?

しかしその犠牲者数は間違いなく大きいのです。そしてその立案者達の最悪の予測だけはその軍事行動が驚くべき犯罪であることを記しています。我々は、それが着手された時の最悪の予測に基づいて、ある行動を評価したり解説したりします。それは道徳的自明の理です。人は当然最善のことを希望します。そして楽観論の幾つかの理由も存在します。しかしそのような希望は、主として富裕で強力な国々での、一般大衆の圧力と行動がどの程度高まるかに懸かっているのです。

Q: あなたは「民主化の波 (democratization wave)」をどのように見ていますか?この民主主義はどのようなものなのでしょうか?これは我々をどこへ連れて行くのでしょうか?

A: 私は米国やラテンアメリカの一般住民がそれを見ているのとほぼ同じ様にそれを見ています。世論調査は民主主義への希求を示しています。しかし「民主主義」と呼ばれているものへの信頼が漸進的に減少していることをも示しています。この事態はラテンアメリカで「民主化の波」が始まって以来ずっと当てはまりますし、その十分な理由も存在します。

アルゼンチンの政治学者アティリオ・ボロンが数年前に指摘しているように、「民主化」は民主主義を破壊している新自由主義と一致していたのです。同様のことは米国にも当てはまります。ここ二十年間にわたってそれ自身の形式の「新自由主義」に従属していたのですから。レーガンが政権に就いた後、政府が「人々」ではなく、「少数者や特定の利益」に奉仕していると考えている人々の数が標準的な50%から80%にすぐに上昇したのです。

200011月の大統領選挙の前夜には、約75%の住民は選挙を真面目に考えず、それが金持ちの政治献金寄付者達と政党の大物達と広報産業のゲームであるとして棄権したのです。彼らは少数の投票者を惹き付ける意味のない言葉を生み出し、候補者を作り上げているのです。しかし有権者達は重要な問題から遠ざけられていなければなりません。何故ならそのような問題では世論が大企業政党の両派閥の総意から極めて鋭く異なる傾向があるからです。世論調査や他の証拠から判断すると、一般大衆は、西半球全体にわたって、このことを十分よく知っているようですね。

もちろん、この事態が持続しなければならない理由などありません。この事態は何百年間にわたって続いている闘争の一つの局面なのです。その闘争には一般大衆にとっての多くの勝利がありましたが、挫折も伴っていました。しかし私が思うに、その循環は一般的に長期にわたって上昇しています。

Q: アルゼンチンは自由主義の教科書に従っていました。そして彼らは今日そのモデルの失敗を映し出しています。人々は抵抗し、示威運動を行ないました。しかし社会的大混乱は続いています。アルゼンチンから引き上げたマネーは誰の手の中にあるのでしょうか?この物語の結論はどのようなものであり得るのでしょうか?そしてブラジルのような近隣諸国に何が起こり得るのでしょうか?

A: どこにそのマネーがあるのかという問題は間違いなく調査する価値がありますし、我々はその答えに関して公正な考察を行なうことが出来ると私は考えます。既に述べたように、ラテンアメリカからの資本逃避は何年にもわたって所謂「負債」のようなものとされてきました。アルゼンチンから流出したマネーの大部分は「負債の返済金(debt-repayment)」です。従って、それは銀行や金融機関等の貸し主の手の中にあります。一年前の米国議会による調査は、米国の主要な国際的銀行が、ラテンアメリカに深く関わった銀行も含めて、非合法的な活動からの巨大な現金流入のための「通路 (gateway)」を提供していることを発見しました。そして同じことが国際的銀行業務体制にも当てはまることを示しました。そのことは他の従うべき接近方法を示唆しています。

一般的に、この問題の中に暗示されている提案は良いものです。つまり、そのマネーを追跡し、それに何が起こったかを捜査し、適切な結論を引き出すというのは素晴らしい考えです。アルゼンチンのマネーだけではありません。ラテンアメリカは、他の地域、特に東アジアと比較すると、富裕層が本質的に責任感を持っていないという事実によって嘆かわしいほど苦しんできました。そのことは脱税や資本逃避、資本財に対する贅沢品の輸入やその他諸々の方策によって暴露されています。そのもたらす結果は住民の大部分にとって常に破壊的なものになるのです。ブラジルへの影響についてですが、それはブラジルの人々が、同様の問題に直面している他の地域の人々と協調しながら、自分達の運命を自分達の手に握ることが出来るか否かに懸かっています。つまり、世界の人々が自分達の関心にとって有益であるような種類のグローバリゼーションを実現することが出来るかどうかに懸かってくるでしょう。

Q: メキシコのように、米国との強い依存関係を有する国々についての評価をしていただけますか?それらの国ではアルゼンチンのような社会的大混乱が生じ得るのでしょうか?アメリカの拒否権の行使を考慮すると、何らかの現実味のある代案、つまり、独立するための経済的闘争の機会が今日存在するのでしょうか?

A: メキシコについては、私の評価に頼る必要はありません。専門的評価が、ワシントンの信頼できる調査研究所である経済政策研究所(the Economic Policy Institute: EPI)によって、働く人々に対するNAFTAの影響を調査している研究の中で、提出されています。その研究は、Human Right Watch [訳注:人権監視団体]によって提出された労働権に対するNAFTAの影響についての研究と共に、昨年(2001年)4月のケベックでの米州サミットの開幕に合わせて、公開されました。両研究は、NAFTAが参加国全ての大部分の住民に損害を与えることに成功した稀な協定の一つであることを見出しました。しかしそれは困った話題でした。指導者達(そしてそれゆえ報道機関)によって予告され、求められていた結論はNAFTAが壮大な成功であり、計画されていたFTAAFree Trade Area of the Americas: 米州自由貿易圏]の模範になるべきであるというものでした。従ってこの二つの主要な研究は、いつもの印象的な恭順と満場一致を伴って、公表停止となりました。EPIの研究は、驚くべきことではありませんが、メキシコ人への影響が最も厳しいことを見出しました。1980年代の新自由主義的改革の強要以来、賃金は着実に下落してきました。そのことはNAFTA以後にも続き、有給労働者には25%の収入の減少をもたらし、自営業者には40%の収入の減少もたらしました。それは無給労働者の急激な増加によって拡大された結果です。同様の影響はメキシコ経済全体に見られます。(対外投資の巨大な増加にもかかわらず)投資総額が減少さえしているのです。ある少数部門が極端に裕福になり、外国人投資家が繁栄しました。公式発表では、貿易は増大しています。しかしそれは企業内の国境を越える移転を「貿易」として数える学説上の判断によるものなのです。そのような行為は古典的自由主義者なら恥ずべきものと見なすことでしょう。その詳細は隠された部分を明るみにするものです。しかし私はここでそれらを概観することは出来ません。それらは他の独立系の研究で確認されていますし、実はビジネス新聞でさえかなり正確に報告しているのです。

メキシコでは既に「社会的大混乱」が起こっています。サパティスタ民族解放軍が最も有名です。規模において最も極端な激変は、国境を越える大量の住民移動です。そこでは越境に成功した人は(多くは成功しませんが)不法な状態でわずかな賃金のために働いており、消費者の日用食品のコストを下げ、アグリビジネスに利益をもたらしています。大規模な民衆の憤慨が建設的な社会変化の方向に向けられるかどうかは、いつものように、選択の問題であり、思弁の問題ではありません。

「アメリカの拒否権の行使」の言及がありましたが、それも、非常に誤解を招きかねないものです。ここでの「アメリカ」は経済・政治・イデオロギー権力の中枢を意味しますが、その権力は我々が今議論している問題で国内住民の大部分に反対されているのです。それ故「拒否権の行使」もまた米国の住民に反して行なわれているのです。我々はもとと同じ問題に戻っています。我々が慣習的なイデオロギーの手を逃れ、イデオロギー的闘争用語ではなく、適切な言葉でその問題を定式化しない限り、どんな意味ある返答も出来ないのです。我々がそのような定式化を行なう時、我々は非常に簡潔で重要な解答に達するのです。私が思うに、思想や行動の多くの結果を伴いながら。

Q: あなたはイスラエル国家の政策と、現在の帝国主義的グローバリゼーションのさらに広域な政策とをどのように関連付けますか?

A: イスラエルは、他の国家と同様に、それ自身の目的を追求しています。しかし他の国家と同様に、もっと強力な国家によって確立された国際的秩序の枠組みの中においてです。

1958年までに、米国の最も高度の政策立案組織である国家安全保障会議は、アラブの民族主義に対する米国の対抗策の「論理的帰結」が、その地域の米国権力の信頼できる基礎である、イスラエルへの支援であることを認識していました。この構想の真面目な実行はほんの十年後に起こりました。イスラエルがアラブ民族主義の指導的勢力であるナセルのエジプト軍を破壊した時[訳注:1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)]です。それは米国ではその地域の米国の目的への大きな貢献として認識されました。米国とイスラエルの同盟関係はその時に現在の形を取り始めたのです。そしてイスラエルは、第三世界の成り上がり者を適切に対処する方法を示したその偉業のおかげで、米国の知識人論壇でお気に入りの存在になったのです。ついでながら、それは左翼の大部分を含んでいます。知識人の歴史に精通している人には何ら驚くべきことではありませんが。その後の年月で、米国とイスラエルの同盟関係は、同様の理由から、さらに堅固なものになったのです。

ニクソン政権196974はイスラエルを中東での手におえない勢力を取り締まる「地域で活躍する警官」の一つとして描いています。この種の問題の数世紀にわたる経験を持った英国が信頼できる攻撃犬と見なされていますが、警察本部はもちろんワシントンにとどまったままでした。米国諜報機関と、中東問題とエネルギー問題で顕著な役割を持っていた上院議員達は中東における米国の政策には「三本の柱」があると述べていました。すなわち、(1)石油の大半があるサウジアラビアとアラブ首長国;(2)当時シャー体制下でエネルギー生産者のみならず主要な軍事勢力であったイラン;(3)もう一つのそして極めて優秀な憲兵としてのイスラエル。

シャー体制が崩れると、イスラエルの役割はさらにもっと重要になりました。その時までには、イスラエルは価値ある副次的貢献を提供していました。すなわち、米国の世界中でのテロ行為計画の実行を、米国議会が大衆の圧力下で直接的参加を制限していた時に、イスラエルが支援していたのです。そのことはラテンアメリカにおいて特にそうでした。イスラエルはラテンアメリカでアルゼンチンの将軍達の体制と密接な関係を持っていました(その体制は極めて反ユダヤ主義的でしたが、その事実が何かを変えることはありませんでした)。またニカラグアを攻撃していた米国のテロリスト軍を訓練し、グアテマラの大量虐殺を行った将軍達に武器を提供したのです。それらは副次的貢献の中の数例に過ぎません。同様のことはアフリカ南部や極東にも当てはまります。

現在ではイスラエルは米国とかなり類似した国家になっています。つまり、経済は大部分先端技術に基づいており、米国と統合され、その軍事態勢と深く関わっています。またイスラエルは産業世界における高度の不平等化の報酬を米国と共有していますし、かつて効果的であった社会福祉事業が衰退しています。また、イスラエルは、エネルギー支配と非常に関連する米国の中東での計画にその役割を担っています。イスラエルの長年にわたるトルコとの同盟は今や完全に公然のものですし、それは米国とトルコの軍事同盟への密接な関わりも含んでいます。その同盟はトルコ東部の核武装した米国戦闘機用の軍事基地も含まれます。この全ては、私の意見では(多くのイスラエル国民と共有しているのですが)イスラエルのユダヤ人にとって悲劇です。そしてもちろんパレスチナ人にとっても同様です。

Q: 中東における紛争とその国際問題における米国の立場についてあなたはどのような意見をお持ちですか?あなたは米国が世界の他の地域への政策を大きく変えることを期待していますか?

A: 米国の政策が大きく変わることを期待する理由は存在しません。なぜなら米国はその歴史(あるいはヨーロッパの歴史)の中で初めて、ヨーロッパ人が数世紀にわたって世界の他の地域に行ってきたようなテロリストによる残虐行為の対象になったのですから。またこの残虐行為に対して、米国は事実上無防備の敵を粉砕するため圧倒的軍事力を使用出来たのですから。

これは一つの変化ですが、米国は現在、中央アジアでの軍事的プレゼンスを確立するために、またその地域や他の地域の残虐で抑圧的な国家との同盟を結束するために、この機会を利用しています。しかし全般的に見て私は多くの変化を期待する理由はないと思います。もしあなたが「中東における紛争」という言葉でイスラエルとパレスチナの問題を意味しているのだとすれば、米国は、事実上の国際的孤立の中で、パレスチナ人の民族的権利を拒絶し、イスラエル人顧客に決定的な軍事・外交的支援を提供するという長期にわたる政策を存続させることになるでしょう。その政策は占領地域における(2000年夏のキャンプ・デーヴィッドでのバラク政権の交渉責任者の言葉を借りれば)「恒久の新植民地主義的従属状態」を維持するという米国とイスラエルの目的を続行するためなのです。

その協定はパレスチナ人に治めるべきいくつかの飛び地を残しておかねばならないのです。おそらく「国家」と呼ばれるのでしょう。ちょうどトランスカイ[訳注:かつての南アフリカにあった反自治黒人居留区の一つ]がその後援者達に「国家」と呼ばれていたのと同様に。キャンプ・デーヴィッドでの地図をちょっと見れば、そのレトリックだけでなく、その意図することを十分明らかにしてくれるでしょう。その意図は何年にもわたって同じだったのですから。[訳注:Edward W. Said, “Palestinians under Siege,” in Roane Carey (ed.) The New Intifada: Resisting Israel’s Apartheid. Verso, 2001. pp.27-42を参照(pp.34-37に地図有り)。我々は既にそれらの継続性の十分な証拠を確かめています。すなわち、200112月に、暴力の終結と暴力のレベルの減少を支援するために非武装の国際監視員の派遣を呼びかける国連安全保障理事会決議に、米国は拒否権を行使したのです。また、責任政府であるスイスによって呼びかけられたジュネーヴ条約に関する会議の開催を実らせなかったのです。これらの行動は事実上、占領下の人々のテロ行為に加えて、国家テロの増大を確実にするものです。これこそが「テロリズムに対する戦争(war against terrorism)」という言葉を真面目に使用できないもう一つの理由です。

Q: パレスチナ人国家の創設についてあなたはどう思いますか?それは実現可能なのでしょうか?

A: 米国とイスラエルの連合によるパレスチナ人国家の可能性についての最初の公式的承認は、私の知る限り、ベンジャミン・ネタニヤフの極右政権下の時でした。彼の通産大臣は「パレスチナ人は、もし望むならば、彼らに与えられた複数の小郡を「国家」と呼ぶことが出来る」と言っています。「フライド・チキン」と呼ぶことも出来ると彼は上品に付け加えています。これでもそれ以前のラビンやペレスの労働党政権よりはずっとましなのです。その二つの政権はパレスチナ人国家の存在の可能性を頑なに否定していたのですから。米国はそれと同じ協定なら疑いなく受け入れるでしょう。1997年にイスラエルの大学での占領地域を話題にした会議で、私は基調講演を行ったのですが、私は、南アフリカの標準的な歴史書からの一節を、四十年前に確立されたバントゥースタンを記述している部分を読み上げました。何らかの比較をする必要はありませんでした。それらは聴衆達には明らかなことだったからです。事実、イスラエル人の議論ではそれらの案がしばしば「バントゥースタン案」と呼ばれていました。

エフド・バラク首相の2000年夏のキャンプ・デーヴィッドでの交渉責任者、シュロモ・ビン・アミ(ハト派と見なされていますが)はオスロ・プロセスの目標を、極めて正確に、パレスチナ人の「恒久の新植民地主義的従属状態」であると述べています。そのような種類の国家なら米国とイスラエルは疑いなく受け入れるでしょう。わずかでも独立を伴ったパレスチナ人国家が確立できるか否かは、米国が何を決定しょうとするかに懸かっています。そしてそれはさらに米国内部での進展に懸かっています。もちろん国際的圧力は過小評価されるべきではありません。米国が湾岸戦争以後、最初はマドリードで、後にオスロ・プロセスで、中東外交の一極的支配を引き継いでから、ラテンアメリカを含めた世界の大部分が、イスラエルと隣接するパレスチナ人の独立国家に対するこれまでの肩入れを放棄してしまったという事実に、パレスチナ人は大変苦しんでいるのです。そのこともまた変わり得るのです。

Q: チョムスキー教授、新しい世界の可能性は存在するのでしょうか?我々はどのようにしてそこへ辿り着けるのでしょうか?

A: 可能性があるだけではありません。それは現実的に確実なものです、人間達が自らを破壊することに成功することがなければ(不幸なことに、その可能性はあります)。さらに言えば、新しい世界は、少なくとも多くの点では、より良い世界になるべきなのです。どのようにすれば我々はそれを実現できるのか?歴史を通して使用されてきたのと同じ方法です。我々はなぜ封建主義下や王や諸侯の下、ネオナチの将校の下に生きていないのでしょうか?なぜ奴隷制は(残念ながら、部分的に)縮小されたのでしょうか?なぜ女性達は過去の時代に持っていなかった権利を(時折)持っているのでしょうか?容易にもっと続けることができます。魔法の鍵や単純な答えなど存在しません。我々全てが知っており、我々の多くが直接体験している方法と同じです。厳しく、ひたむきな、献身的闘争があるだけなのです。

Q: 言語学者としてのあなたの仕事は、全ての言語に共通する基盤を提案しているため、「エリート主義」と見なされていました。多文化主義者達にとって、それは文化的違いを軽蔑するものだからです。しかしあなたの政治的な闘争性はエリート主義に反対しています。あなたはこの問題をどうお考えですか?それは誤った矛盾した行為ではないでしょうか?ちなみに、新しい研究者はあなたの言語理論を追認する傾向があります。

A: 人間の視覚組織には「共通の基盤」があり、そのことは子供たちが通常の状況下で、昆虫が発達させるものとは異なった、人間の(確かに経験に伴って多様であるが、基本的に同じ鋳型に入る)視覚組織を発達させるという事実を説明してくれる、と指摘することは「エリート主義」なのでしょうか?あるいは同様の自明の理をもう一例挙げれば、人間の言語組織には「共通の基盤」があり、そのことは子供たちが通常の状況下で、猫やチンパンジーが発達させるものとは異なった、人間の(確かに経験に伴って多様であるが、基本的に同じ鋳型に入る)言語組織を発達させるという事実を説明してくれる、と指摘することは「エリート主義」なのでしょうか?

もっと一般的に言えば、人間の高度の精神的能力は我々が生物学の世界で知っている他のあらゆる能力と同様なものであり、従って、それぞれの子供はどのような人間言語でも、道徳体系でも、また我々が漠然と「文化」と呼ぶ他のあらゆる側面でも、習得することが可能である、と考えることはエリート主義なのでしょうか?それはまさに基本的な方向性であるように思えます。事実、最も徹底的な多文化主義者達はこの命題に関わっているに違いありません。子供はある錠剤を飲むことである文化を獲得するのではありません。私の孫娘はオーストラリアのアボリジニやタイの仏教徒やその他の人間社会の文化を獲得していたかもしれません。しかし彼女のペットの子猫やチンパンジーは出来ません。それは彼女がその動物達の多くの領域の能力を、あるいは昆虫の伝達技能や飛行技能を、獲得できないのと同様です。

我々が魔術を信じていないとすれば、この全ては、ある特定の有機体の「種の特徴」と伝統的に呼ばれたものに「共通の基盤」を提供する、遺伝的資質に起因することがわかります。人間が、天使ではなく、自然界の一部であると想定するなら、人間も同様です。もちろん、何がこの種の特徴を構成しているのかについての真剣で重要な多くの問題が存在します。言語に共有される能力もその中に含まれます。私もまた他の人も、誰一人として言語理論を所有している者はいません。また私自身の考えも事実上ある大学院生がそれらの問題に関する新しい考えをもって私の研究室にやってくる度に変わります。最近の研究はそれらの問題の多くを本当に、ときに興味深い驚くべき方法で、明白にしました。その一方でこれまで想像もされなかった新しい問題を切り開いています。それこそが活力があり探求するに値する研究計画の中に人が期待すべきことです。

Q: テロリストを追跡するために、北米の人々や米国にいる移民達の「個人の自由」が否定的な影響を受けるのではないかという不安が存在します。あなたはそれについてどのように考えますか?

A: 世界中の粗暴で抑圧的な勢力が自分達の目的を達成するための「絶好の機会」として住民の不安や苦悩を利用していることは疑いがありません。その中には、「保守派」という言葉を使うことでその言葉を侮辱している者達によって要求されているような、規律と従属を強いる国家権力を増大するという目的も含まれます。米国の新しい法律はこの目的に貢献することでしょう。他の地域も同様です。反動的勢力なら極めて当然なこの活動が成功するか否かは、再び、[我々の]意志と選択の問題です。私の考えでは、少なくとも米国では彼らはそれほど多くを得ることはないと思います。とはいえ彼らは間違いなくそうしようとするでしょうし、既にそうしています。

Q: あなたは現代社会の中で何百万の人々の監禁をもたらしている「刑罰統制国家(the State of Control by Punishment)」についてどのように分析しますか?

A: 特定の事例を見るべきです。二十年前の米国を例に出しましょう。米国の投獄されている人々の割合は他の工業諸国の割合と大体同じでした。犯罪率も大体同じでしたし、その状態がずっと続いています。しかしながら、その時以来、監禁されている人の数は非常に上昇しています。その数はクリントン政権時代でさらに50%増加しました。現在ではそのレベルは他の工業諸国の5倍から10倍に達しています。少なくとも有意味なデータをもった国の中では、おそらく世界で最高でしょう。投獄の主要な口実は「麻薬との戦い (drug war)」でした。その戦いは、麻薬とは何の関係もなく、社会統制と大いに関係していたのです。「麻薬との戦い」は、利益を上げるという観点からは不必要な人々を排除し、それ以外の人々を恐れさせているのです。それらは同じ期間に制定された新自由主義的計画に当然付随する物なのです。

それらの新自由主義的計画は、プロパガンダとは対照的に、経済に有害な影響を及ぼしています。また住民の大半にとって、家庭収入が据置きで仕事負担量が増えているのですから、賃金の低下を意味して来ました。現在では仕事負担量は産業諸国の中で最高になっています。有名な「おとぎ話経済(fairy tale economy)」とはむしろ第三世界の国々の経済と類似したものなのです。つまり、[利益が]特権を有する部門の中に狭く集中しているのです。貧困諸国では、社会統制の問題は、暗殺団や他の手段のような、暴力によって対処することが出来ます。富裕国はもっと文明化されています。すなわち、米国はほぼ同じような社会的役割を持つ「投獄」に訴えているのです。もし投獄者達が、そうされるべきなのですが、潜在的労働力の一部として数えられるとするならば、それがもたらす結論は注目するに値します。彼らは圧倒的に貧しく(それは米国では大抵黒人やヒスパニックを意味します)、そして労働年齢の男性なのです。もし我々が、もちろんそうすべきなのですが、彼らを失業者に加えるなら、米国の失業者の割合はヨーロッパ諸国の平均に近似することになります。もし我々が、そうすべきなのですが、投獄に関連する巨大な社会統制体制(保安部隊、警察、犯罪裁判組織など等)を総計に加えるなら、それは相当に高くなります。刑務所建設は主要産業にさえなっています。賃金と社会給付金の減少、労働者の不安定の増大(専門用語では「柔軟な労働市場」)による米国の失業者削減体制は大部分欺瞞なのです。この事実は米国と同じ素晴らしい道を従うように駆り立てられている人々にとって関心が向けられるべき事実です。

Q: あなたは楽観主義や悲観主義のような言葉が今なお意味があるとお考えですか?唯心論と唯物論といった区分は何かを説明できるのでしょうか?

A: 私の意見では、グラムシAntonio Gramsci (1891-1937)の有名な標語を採用することには常に意味があります。彼はそれをロマン・ロランRomain Rolland (1866-1944)から借用し、絶えず反復していました。我々は「知性において悲観主義、意志において楽観主義」であるべきです。これらの概念は本当に意味がありますし、この標語こそが我々がそれらの概念を正しく使用する方法であると私は思います。

唯心論と唯物論については、かなりの誤解が存在すると私は思います。唯物論にはかつて重要な概念がありました。しかしそれはニュートンによって破壊されました。彼は彼が考えていたこと(世界は機械ではない)が「不合理」なものであることを発見し、大いに落胆しました。彼は生涯の最後までその不合理を克服しようと試みましたが無駄に終わりました。彼の時代、またそれ以後長期にわたって、指導的な科学者達もそれが不合理であると見なし、その問題を克服しようとしましたが、同様に成功しませんでした。最終的には、その不合理性は、それに続く数多くの他の不合理性と共に、「科学的常識」の中に組み込まれました。世界はガリレオや近代初期の科学革命によって期待されていたようなやり方では、事実上我々には理解できないということが、そして我々は過去の時代の期待を放棄し、可能な限り最高の理論を構築しなければならないことが最終的に明らかになったのです。その過程が続くにつれて、唯物論は、少なくとも伝統的な意味での唯物論は、姿を消したのです。そのことは標準的な科学史の分野では長期にわたって認識されています。例えば、19世紀のフリードリッヒ・ランゲFriedrich Lange (18281875)による唯物論の古典的研究[『唯物論史』(1866)]があります。従って、「唯物論」に関して何かを言うことは困難です。

また「唯心論」については、さらに言うべきことがありません。少なくとも個人的には、私はその言葉が何を意味するように思われているのかについて明確な考えがありません。

[訳 鎌田 幸雄]