『人権の政治経済学』下巻「激変の後」 (After the Cataclysm): 脚注

Noam Chomsky + Edward S. Herman アクビさん訳

第六章 カンボジア (part2): pp.345-347

18. ポンショー, 前掲書, p. xvi. かれの難民数の見積りは, 比較的控えめなものだ. ベトナムへ 15万人 が流入したといわれているのに加えて, タイの難民キャンプに 1万4千人いる (他の人々は既に再定住した) という最近の見積りを, 我々は先に記した. ベトナム発の情報源によると, 1975年 4月以来 カンボジアから来た 33万人の 難民や流民がおり, 内 17万人がベトナム出身で, そのほとんどすべてが女性や子どもや老人だった (国連難民高等弁務官事務所, Information Note, ハノイ, 1978年 7月31日). 間接的にこの情報源に基づいて, アメリカのメディアは カンボジアから 50万人の難民がでたと見積もった (Boston Globe紙, 社説, 1978年 8月23日; この記録は, ハノイの情報源がめったに信頼されず 認知されていなかったことを示す; この場合, この新聞はオリジナルの情報源に気付いていなかった). ベトナム人難民がカンボジアから脱出したことについては, International Studies Association, Washington, D.C., 1978年 2月 で配布された論文, Laura Summers [ローラ・サマーズ], "Human Rights in Cambodia" を参照のこと. 彼女はカンボジアのベトナム人人口が 戦前の 1970年には 約 45万人で, 「ロン・ノル『クメール共和国』によるベトナム系カンボジア人に対する人種差別行動によって」 31万人が追放あるいは流出した (同時に 2万人が拘束された) と見積もった (彼女の情報源は, 有名な人口研究者 Jacques Migozzi の, Cambodge: faits et problèmes de population, CNRS, Paris, 1973). 上巻, 第三章, 脚注 20 で引用した, T.D. Allman を参照. 合衆国が後ろだてについた政権の人種差別行動による, この 30万人を超える大脱出は, プロパガンダ・システムにこっそり吸収されてきて, ロン・ノルは現在, カンボジアへの軍事介入の提案を支える重要な情報源として, もっともらしく提示されていることに注意. 我々は後で, 過去のロン・ノル不当利用を検討する.

19. 第二章, 第二節を参照.

20. ポンショー, 前掲書, p. xvi.

21. Henry Kamm [ヘンリー・カム], "Cambodians, Held in Thai Police Cages for Illegal Entry, Await Future Apathetically", New York Times, 1978年 5月10日. 本章 脚注 170 も参照のこと. カムのピュリツァー賞受賞については, 上記, p. 58 を参照.

22. 前掲書, p. 211.

23. 同書, p. xiii.

24. 正確には, ポーターは かれらの Readers Digest の記事から よく似たコメントを引用している. そこでかれらは, 「有望な対象者」はキャンプのリーダーによる「ガイダンス」によって選ばれた, と書いていた. 五月公聴会, p. 23

25. 前掲書, p. 187.

26. Richard C. Holbrooke, 東アジア・太平洋担当次官補, 国務省, 七月公聴会, p. 23.

27. 七月公聴会, p. 6.

28. 第二章, 第一節 の議論を参照.

29. 五月公聴会, p. 22, CBS イヴニング・ニュース, 1976年 1月26日を引用; Washington Post (1977年 4月8日). Torben Retbøll による Economist (ロンドン) への手紙, 1978年 8月26日 も参照のこと.

30. 1978年 1月20日, ワシントンにて. これは合衆国の軍事補強を支持する民間団体だ.

31. Battleline, 1978年 5月, アメリカ保守連合 [American Conservative Union] の出版物, カンボジアでの虐殺をとりあげた特集号.

32. 抜粋は Worldview, 1978年 5月, に掲載された.

33. AIM Report, 1978年 5月, パート II, Washington Post (1977年 4月8日) に一面広告として再掲された. AIM Report を出版している Accuracy in Media [メディアの公正さ] は, 資金力のある右翼グループで, 十分なロイヤルティーを得て メディアが国家プロパガンダの教義に固執することのないよう検閲されており,「公正さ」をまもるという名の下に 都合のわるい状況を打開するために様々な圧力をかける. 「カンボジアのホロコースト」に十分な注意を払わないメディアの過失も, かれらの主題のひとつだ.

34. Le Monde, 1977年 9月7,8日, 1977年 10月25日. 実は, CIA が運営する カンボジア軍ゲリラを養成するための秘密学校が ラオスにあった. これは, ロン・ノル首相の兄弟の補佐役だった高官が ヘロイン密輸でラオス警察に逮捕された時に, CIA によって閉鎖された. Alan Dawson, Pacific Stars & Stripes, 1971年 10月12日 を参照.

35. "Cannibalism in Cambodia doubted" [カンボジアでの人肉食は疑わしい], Bangkok Post (1978年 1月24日).

36. Neil Kelly, "Vietnamese refugee walked 350 miles across Cambodia to Thailand" [カンボジアからタイまで 350マイル歩いて横断したベトナム人難民], London Times (1978年 1月30日).

37. かれは, 最悪の残虐行為を 直接 目撃したか 知っていたはずだ ということに注意. ポンショーによれば,「はじめの数か月は最悪の恐怖だった.... 前政権の文民・軍人幹部とたくさんの反抗分子を大量粛正した はじめの数か月の後に 処刑が続いたが, 数も頻度も減少した」(pp. 64, 69) という. 他の情報源でも, 以下でみるように, 同様だ. まったくのプロパガンダ屋のなかで評価されている人々でさえ,「殺害がいくらか減少した」(Leo Cherne, MacNeil/Lehrer の報告, 脚注 53 を参照) に違いないと 同意している. Charne はこのことを, 人口が八百万から五百万人に減少していたことに基づいて, それゆえ見殺しにされたのは少数だけだったと 説明している. この 五百万という数字の出元については, 脚注 118 を参照のこと.

38. Aftenposten (Norway), 1978年 4月22日, 翻訳されて FBIS, 1978年 4月28日, Cambodia, H1-2.

39. John Fraser, "Pushy Russian replaces Ugly American", Toronto Globe and Mail (1978年 11月27日).

40. マイケル・ヴィッカリー, 1977年 9月24日 の個人的な手紙. 我々が引用することを許可してくれたもの. この手紙のなかで, かれは, 真実を見極めるうえで かなり懐疑的であるとともに, カンボジアの発展を悲観的にみているという.


[脚注目次][チョムスキー・アーカイヴ][ZNet/Japan]
akubi@hct.zaq.ne.jp