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テントがあると、公園を使いにくいよね?

「使いにくさ」も場合ごとに、また言葉を発する人によって「どう使いにくいのか」が異なるのだと思います。仮に公園にある遊具がテントによってその機能が損なわれているとか、グラウンドの真ん中にテントが張ってある場合を考えてみます。こうしたケースは明らかに公園利用者の利便性を侵害しているということになるでしょう。その時、私たちはその様なテントの立て方について、テントを張っている当人に「抗議したい」と思うのが自然でしょう。「あなたのテントの立て方は、私たちが公園を利用する権利を侵害している」と。

しかし、現実的に、その様な直接的な交渉を行っている人は少数なのではないでしょうか。むしろそうした直接的な交渉は、現代に生きる私たちにとって「不自然」なことなのかもしれません。

集合住宅に住んでいる場合などは特に、私たちは名前も知らない近隣住民との間で生ずる生活上の軋れきの「解決」に直接的に交渉することはあまりありません。部屋を借りる際に、不動産屋に「何かご近所への苦情がありましたら、当店にご連絡下さい」といったことを言われたことがある人も多いと思います。近所の人のゴミの出し方についての苦情を役所に言うこともありますし、直接言わず、「当日出せよ」と張り紙をする人もいるでしょう。都市生活を営む私たちは、生活上のトラブルについて、第三者を介するなどの手続きを踏むことによって、直接的な交渉の場をなるべく避けるようにする傾向があります。

私はここでクレイム申し立ての手続きについて述べているのですが、なぜそこに注目するのかといえば、もし私たちが野宿している人と名前は知らずともほんの少しでも会話のできる関係があるのであれば、そうした苦情を直接的に言い、穏便に対応することもできないことはないと考えるからです。「そこに立てられたら困るから、あの木の傍に立てて」などと代替案を示し、野宿している人から事情を聞くなどして交渉を進めるならば、お互いの利害が調停され、それまでよりは「まし」な状況が得られる可能性も考えうるわけです。

ところで、テントを張って生活している野宿者のほとんどは、遊具の傍やグラウンドの真ん中にテントを立てたりはしていません。確かに公園の中に立てているわけですが、どちらかと言えば、人通りにおいて邪魔ではない場所、どちらかといえば公園の真ん中ではなく隅の方に立てていることの方が多いのではないでしょうか。それはテントを立てる人が、公園利用者の利便性に少なからず留意しているのと、人通りの多い場所になどテントを立てて生活したくないという意思によるところだと思います。そもそも私たちが野宿などしたくない、野宿生活を送るなど想像の範囲外であるのと「当然」同様に、本来的にテントを立てて生活したいと思っていた人などいません。また、公園にテントを立てることについて「申し訳ない」と仰る人も少なからずいることも、これまで行われた数々の調査によってわかっています(たとえば、大阪市立大学都市環境問題研究会『野宿生活者(ホームレス)に関する『総合』的調査研究報告書』)。多くの彼・彼女ら自身が、公園に住む自らの存在を「迷惑」と捉えているし、こんな生活はしていたくないと思っているのです。

かつて大阪市東住吉区の長居公園において、野宿者の利用する仮設一時避難所の設置をめぐって近隣住民による反対運動がありました。確かにその時の長居公園の状況は、至る所にブルーテントが張ってある、「正常」とは言いがたい状況でした。反対運動のメンバーは避難所が建つと「公園に子どもを連れて行けない」「大阪の文化を損なう」「木陰が使えない」などなどの様々な「理由」を述べ、また「避難所など建てずにホームレスに手厚い支援を」と主張し運動を展開しておりました。中には「北海道なら土地が沢山余ってるからそこに建てたらいい」と、北海道の人が怒りそうな無責任なことを言う人も一部ですがいました。しかし、一方で、テントが沢山立っていた時期も、避難所が立てられた後も、老若男女が公園に集い、広場で子どもが走り回っていたことには変わりありませんでした。「木陰が使えない」という主張にはある程度の妥当性があったと思いますが、それにしても公園は市民の憩いの場としての一定の機能を保っていたのだと言えます。

そんな公園に野宿する人と近隣住民とのふれあいがこの社会にないわけではありません。5年ほど前のことですが、とある大阪府内の公園で野宿していたある男性が、重い糖尿病のため片足を切断した状態で野宿生活を送っていました。単身である上に、何度も入退院を繰り返した挙句、福祉の受給が絶たれ、生活する術を失った彼は野宿することを余儀なくされたのです。とても一人では生きてはいけない状況にあるこの男性は、近所のおばあさんやおじさんの助けを借りながら生活していました。おばあさんが強い口調で言った「何でこの人がこんな生活をしなきゃならんのよ。色々ニュースで大変なこと言っているけど、ほんまに大変なのはここにあるんよ」という言葉が今でも思い出されます。

一方で、やはり「公園のテントが邪魔だ。立ち退かせろ」と役所に連絡する住民の話は今でもよく聞きます。そうした場合の「邪魔」がどのような文脈で語られているのかは、わかりませんが、直接的な交渉とは無媒介に発生する「不快」「嫌悪」の下に発せられた言葉である場合も少なくないと思います。そうした住民意識を背景に、行政による野宿者の「強制排除」が成されている側面もあります。

私はテントが立っていてもいいじゃないか、と言いたいのではありません。公園や河川敷にテントを立てて生活することが、日本国憲法で言うところの「健康で文化的な最低限度の生活」であるとは私は思いませんし、そんな生活を国家はもとより私たちが是とするようではいけないとも思っています。しかし、元々あった生活の場を失い、現在、困窮の極みの生活(Q19、Q21を参照してください)を送る人々にとって、今ある生活の場を失うことの意味について考えたならば、単に「出て行け」と言う事と、私たちが公園の木陰が利用できないことの、どちらが暴力的だと言えるでしょうか。自立支援センターの利用に実質的に様々な制限があり(Q1を参照してください)、畳の上の生活にすぐに戻ることが現実的に極めて難しい人々が多く存在し、その存在を目にしないことのない現在において、私たちは今この「野宿」という「不快」な現実と正面から対峙することでしか、この「迷惑」感を解消することはできないのではないでしょうか。

それにはやはり「対話」が欠かせません。別にべったりとつきあう必要などありません(そうしたい相手に出会えるならば、それは幸福なことかもしれませんが)。例えば身近で野宿している人に話しかけ、「どうして野宿することになったのですか」なんて問いかけみてはどうでしょう。