はじめに読みもの実用調べもの・学習《ピックアップ》メディア連絡先More ... | 野宿って、近隣の人の迷惑になるんじゃないの?「見知らぬ」「何者か」わからない他者が自分の家の近くの公園で寝泊まりしていることを不安視する人は多く、全国の野宿生活者がいる地域の役所には、そうした「迷惑」の苦情電話がしばしばあると聞きます。その様な「私たち」からの苦情を理由に、行政機関による野宿生活者の排除が今日行われています(しかし、行政による排除の事情はそれにとどまるものではありません。Q8、Q9を参照下さい)。そこでは、公園に住む野宿生活者との相互交渉の場が設けられることは稀です。野宿生活者にしてみれば、「ここを追い出されても、また別の場所にテント張るしかない」わけで(野宿からの脱出の困難についてはQ1、Q15、Q16などを参照してください)、いわゆる「イタチごっこ」による「迷惑」のたらい回しが展開されるに過ぎません。 ある人は、「南港に住ませればいい」と言います。つまり「私たち」の生活圏において目にふれない場所に彼/彼女らを連れて行けという意見です。それは「私たち」が当然のものとして享受している都市生活から彼/彼女らを追い出すことに他なりません。「南港に住ませればいい」という意見には、そうした都市生活を送る権利を野宿生活者には認めない、社会のメンバーとして彼/彼女らを認めない、さらに言えば彼/彼女らを社会的に抹殺するという意見と(全く同じではないとはいえ)重なります。果たしてその様な「臭いものには蓋」的解決法でしか、野宿生活者に対する「迷惑」を解消することはできないのでしょうか。 そのような方法をとらずに野宿生活者に対する「迷惑」を減らすことのできた人々が住む地域があります。大阪市中央区のとある公園では野宿をしている人が数人いました。そこでは彼/彼女らと近隣住民との良好な関係がありました。たとえば近所のマンションの住人の犬をテントで預かったり、住民がテントに住む人の犬を散歩させたりという交流がありました。公園の住人たちは毎日公園の清掃を行っていたため、近隣住民からは「あんたたちがいると公園がきれいで助かる」「あんたたちがいるから公園に夜来ても安心だ」という声が聞かれたそうです。 ここで重要視したいのは、当初「見知らぬ他者」であった野宿生活者と、何気ない相互交渉を行ったことにより、一部の地域住民と野宿生活者との間で一定の規範(マナー)が共有され、もちつもたれつの共同関係をも構築することができたということです。顔と顔を付き合わせ、相互交渉を行うことによって、互いのことを知ることができ、「迷惑」を低減させることができたのです。 野宿生活者が公園にいることについては否定的な意見も多いと思います。しかし、「私たち」と野宿生活者の人々との軋れきを減らす方法は、単なる排除のみではないということを上記の事例は示しています。こうした相互交渉によって「問題」に対する一定の対応を行う一連の過程とは、「私たち」の社会が今忘れかけていることなのではないでしょうか。それを私たちの誰しもが行いうる可能性を秘めているにも関わらず、です。 しかし、この公園では2006年、行政による野宿生活者の一方的な排除が行われ、公園に住む人々は生活物資を根こそぎゴミにされてしまいました。行政担当者は「不法占拠」「迷惑」としか言わず、自分がいない間に撤去された人もいたそうです。そこには相互交渉の場はありません。ほんの少しの物資の不足が死への圧力となる生活を送る人々にとって、それは死活問題です。この排除の非人道性に憤りを覚える一方で、私がここで問題にしたいのは、この小さな公園で営まれていたことの意味を、行政がどのように捉えているのかということです。 「私たち」の社会には様々な立場にいる人々が、それぞれ個別の利害をもち、それらが鋭く対立する状況が幾多と存在しています。日々流されるニュースを参照すればそのようなケースはいくらでも確認できるでしょうし、またそれは氷山の一角でもあります。その雑多に錯綜した利害とはどのように調整しうるのか、そうした人々の「共存」はいかなる条件において可能なのか ――その手続きの重要性は近年特に増してきています。上記の公園では、互いに「対話」という方法を積み重ねることで、それを行わなければ「無条件に」感じてしまう「迷惑」を低減することができ、それによって(それが継続的なものかどうか、本当の「解決」なのかはさておいても)「共存」を可能にしたのです。この小さな貴重な事例について行政はどのように捉えているのでしょうか。 行政とはそうした様々な個別利害を調停する役割を担う最たる存在だといえます。この困難な課題について、行政に頼らず自分たちで一定の解決をみた地域の力とは、野宿だけではなく他にも様々な問題を抱える「私たち」の社会において、今後求められる貴重な力だと私は思うのです。 様々な困難な問題について「官民協同」「ボランティアとの連携」の下で、なんて言うは容易ですが、その具体に往々にしてある「あっちがたてば、こっちがたたず」について本来自覚的であり、その「解決」に常に窮しているのは、他でもなく、行政なのではないでしょうか。 確かに、地域にはそうした良好な関係をもっている人だけではなく、具体的交渉をもたず「迷惑」を訴える人もいたでしょう。しかし、私にはこの排除行動が、見知らぬ他者に対する理解を媒介に地域で育まれた力を全く無視して行うほどのことだったのだろうかとも思うのです。そして、行政がこの強制排除こそが執るべきベターな手段だというのであれば、私たちはそれが様々な事柄について有している「はず」の調整能力を疑わなければならないでしょう。 また、その疑いは、強制排除を支持する「私たち」について、「まず」向けられるべきものではないでしょうか。 |