はじめに読みもの実用調べもの・学習《ピックアップ》メディア連絡先More ... | 釜ヶ崎大阪市西成区にある全国最大の日雇い労働者の街。その主たる景観は簡易宿所(通称「どや」)で、最盛期には200件以上のドヤが立地していた。「釜ヶ崎」はかつて字名として地図上にも記載される正式地名であったが、1922年の町名改正によって消滅し、以降はこの地域を呼称する俗称として残り続けている。また別名として、この地域には「あいりん地域(地区)」という名称があるが、これは1966年に「釜ヶ崎」という呼称にかわって行政対策のなかで付与されたものである。その背景には、1950年代から1960年代にかけてこの地域が「社会問題」として差別的表現とともに新聞やテレビなどのメディアを通して報じられた結果、「釜ヶ崎」という地名があまりにもネガティヴなものになったという事情がある。当時の新聞記事によれば、「釜ヶ崎に住んでいる」というだけで結婚差別や就職差別が起こっていたのだという。 当地域の人口は2万とも3万とも言われるが、その大半を単身男性の日雇労働者が占め、簡易宿所で宿代を支払いながら生活している。重要なことは、釜ヶ崎が単身男性の日雇労働者が集中する空間となったのは、1960年代から1970年代初頭にかけて展開した「あいりん対策」と呼ばれる大阪市・府・国政をあげての政策の帰結だという点である。1961年8月、車に轢かれた労働者に対する警察の対応をきっかけとして、いわゆる「第一次釜ヶ崎暴動」が起こった。この暴動に対処すべく、1970年代初頭までの期間、対策が展開したのである。 この「あいりん対策」であるが、その主眼は以下の2点にあった。第一に、女性や子供、家族連れの労働者を釜ヶ崎外の地域にある市営住宅等に転居させること。第二に、全国からやってくる単身日雇労働者の受け皿として空間を整備していく、ということである。 それではなぜ単身日雇労働者を集める体制を整える必要があったのだろうか。答えは端的にいって、労働力が必要だったからである。1960年代前半には、高度経済成長を背景とする貨物の劇的増大を背景として大阪港における港湾労働の需要は逼迫し、大量の日雇労働者を使用しなければ港湾機能は立ち行かなかった。また、1960年代後半になると、1970年に日本万国博覧会を開催することが決定され、万博の開催地建設のほか、道路や地下鉄などの万博関連工事を急ピッチで進めるために、建設業において大量の日雇労働力が必要とされた。 このような政策的空間形成の帰結として、この地域はきわめて特殊化された空間へと変容させられた。まず労働の側面からみれば、戦後の労働行政は職安を充実することによって手配師などを経由した労働力供給の形態を断ち切ることを目標として掲げてきたが、釜ヶ崎においては業者と労働者との直接交渉が特例として容認され、手配師の存在も事実上黙認された。民生事業の側面からは、大阪市においては各区毎に民生局が管轄するが、釜ヶ崎にはこの地区を管轄する特別施設として市立更正相談所(市更相)が1971年に設置された。釜ヶ崎の福祉の窓口はこの市更相が担当するのであるが、そこでは生活保護が必要な労働者の切捨てが日常となった。居住の面からは、あいりん対策が進行中の1960年代において行政サイドは簡易宿所の存在を積極的に認識し、流入してくる労働者を受け入れるべく建替えを行うよう「指導」していた。 つまり、あらゆる側面で釜ヶ崎は一般的な諸制度から切り離された「例外的な空間」として整備されたのである。 現在、ここにきて突如として住民票の「不正」登録が問題として取り上げられているが、そもそもの「不正」は以上のように釜ヶ崎が政策的に例外的空間として整備された経緯に存している。 |