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長居公園の野宿者テント村強制排除に関する陳情書

「長居公園の野宿者テント村強制排除に関する陳情書」は、NPO法人長居公園元気ネットが、大阪市による長居公園テント村への行政代執行に反対して市会に提出し、受理された陳情書。

長居公園の野宿者テント村強制排除に関する陳情書

大阪市会議長 様

長居公園の野宿者テント村強制排除に関する陳情書

【陳情趣旨】
 私たち長居公園元気ネットは、誰もが住みやすいユニバーサルなまちづくりをめざして地域で活動するNPOです。毎年住吉元気まつりなどのイベントを通じて地域の人々との交流に取り組んでいます。
 さて今般1月25日、大阪市は長居公園で野宿生活する人々に対し、行政代執行法による強制排除を行う前提として戒告書を交付しました。長居公園のテント村住民による「長居公園仲間の会」は、私たちともたびたび活動を共にし、地域の活動にも多大の貢献をしてきました。ゆえにこの決定には納得出来ません。
 市が強制撤去をやむなしとする理由は、園灯などの工事の支障となる、周辺住民より苦情があるとのこと。そして公園の不法占有を続けなくても、代替となる手厚い支援策があるとのことです。また世界陸上という国際イベントが予定されているための野宿者排除であるとの話も耳にします。
 しかし当事者らは工事区域外への移動も含む工事への協力を申し出ていますし、私たちも含めた周辺住民に対する迷惑行為もなく、「長居公園仲間の会」のテント村が公園のごく一部を使用している現状をもって、行政代執行法を発動して強制排除しなければならないほどの緊急性があるとは到底思えません。
 行政手続法にしたがって当事者らが1月10日付で提出した弁明書を私たちも読み、充分に考慮すべき事由がそこにあると考えています。また、市が手厚い支援策と称する支援メニューの内容が不充分で、当事者らが受け入れ不能とする理由も充分説得力があるものだと思います。
 なにより、この厳寒の時期に住居を破壊して追い出しを行い、人の生命を危険に晒すということは、憲法で生存権を保障し、国際人権規約を批准するこの国の行政にあって、あってはならない行為であります。
 こうしたことを無視して、血税による多大の費用を投入して行政代執行を強行しようとする理由が全くもって理解できません。国際イベントの会場に野宿者のテントがあることを「恥」というなら、年間200人もの人が路上で亡くなる街というのは「恥」ではないのでしょうか。美観を保った公園のその影で人知れず路上で人が死んで行くような「恥ずべき」社会より、問題を隠蔽することなく、公園のテント・小屋からこの問題を発信してゆき、それを受け止める社会の方がよほど健全であると私たちは考えます。
長居公園を利用する住民という立場からも、野宿する人々の命を危険に晒して得られる公園の「美観」も「適性化」も私たちは望みませんし、そのような市政は間違っていると考え、ここに陳情いたします。 
【陳情項目】
1. 1月10日に提出された当事者の弁明書の審議過程を明らかにして、退去勧告に応じられないとした当事者の弁明を正当と判断しなかった根拠、とりわけ当事者側の工事に協力するとの申し出に応じない理由、公園内におけるテント村の存在が周辺住民へ与える影響の深刻さなど、弁明の内容に優先すると考えられ、行政代執行法を発動しなければならないほどの緊急性があるとする理由を示してください。
2. 1について充分納得のゆく回答が得られない場合は、行政代執行手続きをただちに中止し、代替地移動の提案の審議を含む当事者との話し合いを充分に行ってください。
2007年1月29日
【陳情者】
特定非営利活動法人 長居公園元気ネット
代表       (※住所略)
(以上)

長居公園の野宿者テント村強制排除に関する陳情書・付帯資料

【長居公園仲間の会による地域の活動への多大の貢献】
 長居公園仲間の会の人々は、公園の公共性を充分に理解し、やむを得ぬ不占状態の中でも、閉じられた占拠状態ではなく、開かれた公共空間としてのテント村をめざしてきましたし、その努力は次に述べるような様々なアクションとして具現化してきました。
(1)開かれたテント村
 まず「長居公園仲間の会」のテント村の中には誰でも自由に出入り出来、話をしてゆくことが出来ます。いろいろな立場の人が相談に訪れることもあれば、単に散歩のついでに立ち寄って気軽にお茶を飲んで行く人もいます。
 また支援者から借りた土地で農園を運営し、毎週農作業の日を決めて無農薬農業に取り組んでいますが、そうして自分たちで仕事を創出するに留まらず、そこで収穫した野菜類を地域の人々に廉価で販売することを通じて、近隣住民との交流をも大切にしてきました。
 さらに、長居公園で3年続けて行われた「長居大輪まつり」は、野宿生活者が主催のまつりですが、誰でも自由に参加出来、楽しめるものを目指してきました。これには私たちのグループのみならず、実に様々な痢場の多くの団体・個人が賛同して参加しています。
(2)支援活動
 「長居公園仲間の会」は野宿者に限らない様々な人々に対するユニークな相談活動や直接支援を行ってきました。相談活動はテント村に関係があるなしに関わらず、いや野宿や路上生活であるなしに関わらず、当事者の意思を尊重し、センター入所を希望する人も居宅を望む人も、変らず支援をしてきました。さらに生活保護で居宅に移った人や入院中の人、もともと「ホームレス状態」ではなかった人も含めて、様々なケースに対応してきました。野宿生活者に関しては、現に仲間の会の相談を通じて居宅を獲得した人は100人以上いますし、自立支援センター他の市の支援メニューの利用その他の方法での支援を得て多くの人が今までに野宿を脱却しています。  このことからも徒に市の支援メニューを拒否し、公園に居座ることを主張しているグループではないことが判ると思います。よく誤解されているように、単に野宿する「権利」を主張しているわけではありません。望むことは公有地の不占状態の合法化でもありませんし、恒久的な使用権でもないのです。それはあらかじめ選択肢を奪われた結果でしかありません。
 これらの活動は市の巡回相談などと違い、同じ野宿であるという目線と、本人の意思を尊重したキメ細かい支援によるところが大きいと考えられます。また、DVや精神の病など経済的理由以外で相談に訪れる人もいますし、今晩寝るところがない、という所まで追い込まれた人々にとってのまさに駆け込み寺、シェルターとして機能してきたと言えると思います。これら本来、行政のケースワーカーが為すべき仕事を仲間の会がボランティアとしてこなしてきた経緯は明記されなければならないと思います。
 直接支援としては月2回の定期的な炊き出しをはじめ、夜回りやパトロールなど、これもテント村の住人の自発的行為として行ってきています。
(3)啓蒙活動
 テント村には掲示板や予定表があり、それは一般の人も見てゆけるようにオープンに設置されています。そこで野宿現場で起こっていることや、様々な情報を発信してきました。また農作業など、誰でも気軽に参加出来るように予定も知ることが出来ます。実際に足を止めてこれに見入ってゆく一般の人もよく見かけました。
 時おり野宿者襲撃による痛ましい事件が報道されますが、残念なことに、他の野宿現場と同様、長居公園のテント村や長居公園内で路上生活する人々へも無理解な人々による理不尽な襲撃事件が後を絶ちませんでした。ここで負傷者が出たこともあります。そうしたことに対し、徹夜のパトロールなどを強いられることもありましたが、別の方策として、周辺の学校や町会などに対し、理解を求める粘り強い活動を行ってきました。周辺の学校への申し入れやビラ撒きもしました。また野宿当事者らによる大学などでの「出前授業」などの活動も行ってきましたが、周辺の小中学校の協力を得て、人権教育の一環として野宿当事者による授業や交流を行ってもいます。
 こうした活動は、野宿者を襲撃から守る、という意味合いだけではなく、子どもたちが誤った認識に基づいて道を踏み外さないための活動であったとも言えます。これも国や行政が、責任をもってあたるべきことがらです。一部の者の権利主張という範疇でなされたものではありません。

【公園の工事と行政代執行】
 ご承知の通り、大阪市は昨年の1月30日にも、靱公園全域と大阪城公園の一部区画に居住する野宿生活者に対して、そのテント・小屋などを行政代執行手続きにより強制排除しました。その前年には、名古屋の白川公園において、同様の強制排除が行われています。
 このように、毎年、厳寒のこの時期に、野宿せざるを得ない状況にある人々が、起居する場所を奪われ、追い散らされるという事態が起きていますが、行政がその「強制排除」をやむなしとする理由として挙げられることのひとつが、公園の改修などの工事です。
 白川公園の場合は「愛知万博」、靱公園の場合は「世界バラ会議」、大阪城公園については「緑化フェア」による公園内の工事に支障があったというのが強制排除の主な理由とされているようです。今回の長居公園のテント村についても、テント村付近の園灯設置及び園路工事に支障をきたしているというのが主な理由であるようです。
 ところが、いずれの場合も工事予定が発表された時、そこに野宿する人々の側からは、テントの場所を移動するなどして工事に協力する旨の申し入れがなされています。
 それに対して、行政側は一貫して公園内の移動は認めない、他所に新たにテントを張ることも認めない、ただテントを撤去せよ、という姿勢で対峙してきました。他の公園に移動しようにも、市内の公園は「野宿者対策」で24時間ガードマンが巡回して監視され、フェンスやロープが張られて新規流入を取り締まっています。そのあげくには一方的に話し合いの場も遮断して交渉そのものが出来ないようにもしてきました。
 そこで示されることは行政が示す施策にのれ、ということですが、それはあとに述べるように施設収容(一部生活保護)のみの不充分なもので、当事者側にとって受け入れ難い選択肢しか示されませんでした。
 移動の申し出を拒む一番の理由は、行政側としてそれをいったん認めると、公園の使用そのものを野宿者に対して認めたことになるということに他ならないようです。しかし現在既にそこに起居している事実があるのに、根本的問題が解決されないまま、以降の利用は認めない、ということはおかしなことです。
 もともと、都市公園法に違反しながらも、生き残るための起居する場所を確保するために背に腹を代えられずそこにテントなどの構築物を置く原因は、「ホームレス状態」にある人が存在するという事実であり、また不完全なセーフティネットから漏れてそうした人々が生み出され続けるという事実であるのに、それを無視してその場所を認めないということは、彼らが「居るはずのない」人々として扱われてきたことを意味します。それゆえ、元来人の命というかけがえのないものと同列に論じることなど出来ない整備改修工事などを理由にその居場所を奪おうとする考えが生まれるのだと思いますし、その方策としても、人の居住する場所に立ち退きを要求するという手続きではなく、行政代執行法という、単なる「物件」を除却するための法的根拠をもって、そのテント・小屋を撤去し、結果としてその人々の居場所を奪う、という行為にも現れていると言えます。少なくとも人が住んでいるものを破壊することは、いかなる理由があろうとも、「適切な代替住居」や「真正な話し合い」を抜きにして、一方的に許されることではありません。ここには一貫して、そこに「居る」「人」という存在を無視する考えがあります。
 その行政代執行法そのものにも、「他の手段により義務の履行を確保することが困難な場合」という要件があります。つまり、行政代執行はすべての策をつくしたうえでの最後の手段でなければなりません。それなのに当事者は工事への協力も申し出ているし、その他の方策を探る話し合いも要求されているにも関わらず、それらを拒否し、一方的に行政代執行を強行しようとすることは、職権濫用の疑いさえあります。方策としても、わずか数人のために、多くの職員、多大の経費を投入する行政代執行は、この場合最悪の選択であると言わざるを得ません。
 大阪市は昨年の靱・大阪城両公園の野宿生活者のテント物件除却のために、職員・ガードマンに大動員をかけて、行政代執行を行いました。その現場に動員された職員の方々が、皆野宿生活者のテント破壊を進んで行ったのではないと信じます。ならば、そのことを命令され、職務規定により拒否できない現場の職員の方々も酷い立場に置かれていることになります。余程誤った認識を植え付けられていない限り、誰も望んで人の住んでいる場所を破壊しようとは思わないはずです。そうしたことを強制する行為でもある行政代執行は、本来簡単に発動されていいものではないはずです。

【周辺住民の苦情、もしくは健全な社会通念にそぐわないもの】
 行政代執行が多大の予算を使って行われるものであるだけに、強制排除が行われるたびに、その行為の正当化が喧伝されます。そこで強調されるのが、周辺住民の苦情や都市公園法における不法占有である、ということです。
 公園は「市民のもの」という主張に異議はありません。誰のものでもない代わりに誰でも利用することが出来るという点においても同様です。ということは、野宿者にも利用する権利があります。彼らも市民だからです。問題はそこに定住のための「家」を建て「居住」するということにあるようです。
 ところが都市公園は公有地であると共に、災害法にも指定されている通り、広域避難場所でもあります。野宿せざるを得ない人々が経済難民であるならば、やむを得ずそこに起居することになんら問題はないと考えます。なぜならば、私有地を侵さずに避難できる場所はそこにしかないからです。
 人は最低限起居する場所を必要とします。それゆえ、憲法にも国際人権規約にも適切な住居を得る権利、居住権という条項があります。それを認めないということは、生存権を認めないことに等しいことになります。著しい困窮により、「ホームレス状態」に陥った人々が、それゆえに生存権さえ剥奪されるという根拠は法的に考えてもありません。
 神戸の震災の際には、ある人たちは避難所に行き、ある人たちは公園にテントを張り、家を失った人も家が残った人も皆で支え合っていました。それとどう事情が違うのでしょうか。
 ちなみに国際人権規約の社会権規約第11条にある居住権とは、「そこに」居住する権利のことではなく、(適切な条件を有する)居住の場を得る権利のことですし、山内裁判で争われているのも、「公園に」住民票を置くことの正当性ではなく、様々な権利発生の根拠を住民票に置く現行の社会制度の中においては、(どこに居ようと)住民票を「得る」ことの正当性です(ここにおいても「公園に居座ること」を正当化しようという意図はなく、このことにおいても大きな誤解がついて回っています)。
 次に「市民の苦情」も理由としてあげられますが、長居公園で野宿生活をする人々が一般公園利用者に対して実際に迷惑行為を行ったという話は聞きません。野宿生活者はほぼ例外なく市民の迷惑感情には極力配慮しています。
 実は公園を不占状態で使用しているということを誰よりも苦慮しているのは、当の野宿者たちです。そのため市民感情を出来るだけ害しないように、場所を選んで配慮しています。公共性に配慮し、周辺住民とうまくつきあったり、進んで公園の掃除などをして関係性を築いているケースもあります。
 それでも他に居場所がなければ仕方がないので、公園の目立たない所に居場所を作るわけです。定住のためのテントや小屋を公園などに建てる、ということは想像以上に冒険なのです。
 一方で路上生活は大変です。仕事に行く際に荷物を置いておく場所すらないので、寝具は毛布一枚、着替えもなくて着たきりと、持ち物は制限されます。
したがって生活水準は劣悪です。ダンボール一枚で作る一夜の宿は、時には若者の襲撃やいたずらに晒され、熟睡出来ることはありません。軒先を貸してもらっている立場上、店のシャッターが閉まった頃を見計らってダンボールを敷き、早朝には掃除して跡形もないようにして立ち去ります。「迷惑」をかけることが、自分の寝場所を危うくする行為であることは、彼ら自身が一番よく判っているからです。
 公園に限らず、体を横たえられそうな場所は、どんどんつぶして行くような施策も進められています。雨がしのげそうな場所はフェンスで囲って入れなくし、路上の余地には石を置き、ベンチには手すりをつけて横になれないようにしています。
 わずかな手荷物には、印鑑、通帳などの大事なもの、卒業証書や家族の写真などのかけがえのないものも含まれているのですが、路上の茂みやちょっとしたスペースに置いてあったそうした荷物が、清掃の際に勝手に撤去され、その日のうちに焼却されてしまったというようなこともありました。一時も心休まる暇のない生活であるとも言えます。
 定住出来れば、そうした荷物を置いておけるし、アルミ缶集めなどの仕事もすることが出来ます。多少ましな生活環境を自力で築くことも出来ますし、仲間同志の助け合いもあります。
 それが判っていても、定住に踏み切れない多くの人がいるのは、不占状態への後ろめたさであり、そのことが市民感情とぶつかる冒険であることが判っているからです。
 いま大阪市内の主な公園は、24時間ガードマンが巡回し、新しいテントが張られないように監視しています。そのような素振りを見せただけで、多くの職員に囲まれ、恫喝され、逮捕されることもあります(そうしたことにももちろん税金が使われています)。
 確かに都市公園法に照らしてみれば、野宿者のテントや小屋は「不法占有」にあたるかも知れません。しかし、場合によっては命を危険に晒されるほど困窮した人々が、生き延びるためにやむを得ず建てたテントや小屋は、都市公園法よりも上位の法律である憲法に保障された生存権を守るためのものだと考えられます。
 まして長居公園の場合、広大な公園の一角をテント村が占めているだけで、通行や利用の邪魔にもなっておらず、一般の利用にあたって著しい障害になっているとはとても思われません。  市民の迷惑感情の多くは、実際に野宿生活者と話をしたことも接したこともない一般公園利用者の根拠のない憶測、あるいは根深い偏見に基づいていると思われます。野宿生活者が仕事もせず遊んで暮らしているとか、乱暴で危ない人々であるとかいった一般に信じられていることも、事実とは大きく異なります。むしろ誤った認識に基づく青少年たちの襲撃に晒される野宿生活者らは、一方的に被害者ですらあります。
 「人権都市」を標榜する大阪市にとって、そうした偏見を是正することこそ、まず為すべきことであるかと思われます。というよりも、様々な調査を通じて、行政もある程度野宿生活者らの実態を把握しているはずです。苦情があるとすればそうしたことをまず説明することがスジであろうと思われますが、そうではなくそうした苦情を排除の理由として位置付けています。
 長居公園のテント村は、先に述べたように、様々な活動や交流を通じて地域との共存に力を注いできましたが、他の公園についても、例えば公園の掃除や公的な行事に積極的に参加したりして、近隣住民との信頼関係を構築していたりする例は決して珍しいものではありません。
 それらを否定してただ排除する「健全な社会通念」とは一体何でしょうか。

【支援メニューの実態】
(1)生活保護
 これは住所のない野宿者にとってもともととてもハードルの高いものです。しかも野宿者に対する場合に限らず至るところで違法な運用がされています。生活保護は必要に応じて、いつでもどこでも受けられるのが原則です。しかし実際は、住所がないこと、年齢や稼動要件を問題にして、充分な説明もなしに門前払いにされるケースがあとをたちません。周知のように要保護の人たちを放置して死に至らしめた事件がいくつも起きています。
 また靱・大阪城公園の強制排除の際、代替策として提示されたのは自立支援センターとシェルターのみで、生活保護については提示もされませんでしたが、今回の長居公園の退去勧告に伴って巡回相談を通じて生活保護をちらつかせています。まるでテントをたたんで公園から退去させるためのエサのように使われているフシもあります。実際、こうして生活保護を受けた人たちが、わずか3ヶ月後に突然保護を打ち切られて路上に逆戻りするケースが報告されています。
 大阪市は全国一生活保護受給世帯が多いこともあって、国からも睨まれ、世論の攻撃も受けています。それゆえ、本来受給後の細かなケアをすべきケースワーカーは、就労自立をなかば強制され、それは受給者にプレッシャーとなって現れます。
 そうした実態を知っているがゆえ、生活保護を受けたがらない人も野宿者にはいます。また自分は仕事をしながら自活しているという自覚があり、国や税金の世話にはなりたくないという理由で生活保護を望まない人もいます。こうした人々を「自立」していないとなぜ言えるのでしょう?
 なにより、この段になって生活保護を持ち出すくらいなら、野宿に至る水際での適法運用がされておれば野宿にならずに済んだ人だっているわけです。公園で起居することをもし違法占有であるというならば、こうした行政の違法運用はなぜもっと問題化されないのでしょう?
(2)シェルター(仮設一時避難所)
 これは現在、市内で1ヶ所のみ、大阪城公園に規模を縮小して運営されています。確かに起居する場所は用意されています。シャワーや洗濯機も用意されていますが、食事提供は1日1食白飯のみです。つまり、生活のためには仕事を続けなければなりません。そのため、アルミ缶集めなどの作業も出来るように仕事場が設けられています。ペットのための犬小屋も設けられました。ただし、こうした配慮も運営法人の判断で徐々に改善されてきたもので、当初はありませんでした。
 テントなどで暮らすより、いいじゃないか、と世間の人は言いますが、入所できる期間は限られています。大阪城公園シェルターも設置期限はすでに過ぎており、何度か延長されて今に至っていますが、いずれなくなります。食うためにはアルミ缶集めなどは続けなければならないので、就職活動をする暇は満足にありません。あくまで一時的に「居られる」場所に過ぎないのです。
 そこを出たらどうなるか? テントや大きな荷物は入所時に廃棄させられているので、あと戻りは出来ません。とすれば何もない、路上での生活に放り出されるだけです。
(3)自立支援センター
 これはシェルターと違って、入所期間中の3食は保障されていますが、やはり入所期間は3ヶ月から最長6ヶ月と限られています。規則は厳しく、相部屋の集団生活。当初は再入所も出来なかったので、言わば一発勝負の賭けのようなものでした。そこで仕事を探すわけですが、もともと野宿に至る過程で、あらゆる手をうち、どうにもならなくなった状態で野宿に至っている人が、いざ仕事を改めて探せ、と言われてもすぐに見つかるはずもありません。簡単に仕事が見つからない年齢層であることに加え、就労指導の中で、アルバイト的な就労は許されないため、それは一層難しくなります。そうした人々は100回を超えるような面接を強いられる人もいて、心身ともに疲れ果てます。
 もとより自立支援センターからの紹介ということで、面接にも至らず門前払いになるケースも多いですが、それにも一般企業の野宿者への偏見が根ざしていると言えます。
 就労して退所する率は4割ほどです。内容的に不安定な就業も含んでいるので、就労した人がその後、また失職して野宿に逆戻りしているケースもあります。
 そして就労出来なかった人も、期間が満了すれば、シェルター同様、以前よりももっと悪条件で路上に放り出される運命が待っています。
 これらの他にも見逃され勝ちな点があります。それは、こうした施設収容は人間関係を破壊するということです。テント村などではコミュニティを作り、助け合ってきた関係が存在します。それは様々な問題を自助努力で解決してきた、場合によっては待遇などよりもずっと大切なものですが、それがバラバラに解体されます。
 神戸の震災の時も仮設住宅や復興住宅に移る際、避難所などで形成されていた「助け合い」が解体されました。独居により、「助け合い」の中で沈静化していた問題が顕在化して、健康や精神を蝕まれることもあります。そうしたことが原因で孤独死に至ったりした過程は痛ましい記憶として残っていると思いますが、それと同じことがここに起こってきます。
 またそれは生活保護でアパートに移った場合にも同じことが言えます。こうした面にこそ、きめ細かなケースワークが必要となるのに、保護を打ち切るための「就労指導」が優先され、そうしたことはほとんど為されていません。
 このように、仮設一時避難所、自立支援センターともに、後戻り出来ないリスクを抱えながら、就労出来るかどうかは半分以下の確率、というところに踏み出さなければならない過酷なものです。処遇云々の問題よりもそうした事情はずっと深刻であるということが一般には知られていません。
 もちろん現場では職員の方々の誠実な努力、現場判断による改善もされていますが、施設収容という劣等処遇の考え方自体が持つ問題点は指摘されねばなりません。
 これが市が提示するほとんど唯一の選択肢なのです。それらを唯一の選択肢として、自ら築いてきたテントとそこを仕事の場所とする生活圏そのものの廃棄に同意を迫るようなやり方が「真正な話し合い」とは到底思われません。
 そこで現行の支援策が受け付けられなければ、退去後もどこかで住み続けるしかありません。しかし長居公園の場合は、そのためには現在地に拘らず、代替地でも構わないと言っていることに対しても、話し合いすら拒否されている、というのが現状です。
 いずれにしても、市が提示するメニューが求めていることは、何をおいてもまず「野宿の放棄」ということになります。そのメニューに乗れない人々は、「自己責任」で強制排除されても仕方がない、という論法なのです。
 一時避難所にせよ、自立支援センターにせよ、テント・小屋をたたんで廃棄することを条件に、いや、それを目的として、テント・小屋に住んでいた人々の退去後の受け皿として考えられています。
 しかし、もし本当に受け皿として考えられているならば、代替住居としての条件を備えていなければならず、生存権に基づく「健康で文化的な」最低条件の生活水準が保障されていなければなりません。
 ところが、その条件が不充分であることは行政側も判っているので、あえて「自立していない」ことを本人の責任による「努力不足」に還元し、だから「自立」を促進しなければならない、とし、そのための「経過措置」として、まるで社会更生のような扱いをするように思えてなりません。
 もともと生活保護の世話にならず、自分で働いて自活していた人々、さらに言えば、社会的な活動などにも関わって社会参加してきた人々をつかまえて、「社会復帰」や「更生」を促すなどという考えはそもそもそぐわないのにも関わらずです。
 そもそもテントや小屋がけの生活を送っている人は、野宿生活者の一部に過ぎません。大阪で「ホームレス状態」にある人は、非常に少なく見積もっても6000人以上という状況なのに、これらの施設の定員は600人ほどにすぎません。このことからも、テント・小屋がけを行っていない、露宿者、つまりダンボールや毛布のみで、夜間、シャッターの閉まった店先や公園のベンチで夜を過ごす人は、ほとんど相手にされていないということが判ります。
 今も大阪では年間200人という人が路上で命を落とします。健康を損ない、命を危険に晒されて、本当に緊急性を要する人々はそうした人々であるのに、公園のテントをたたんだ人の受け皿たるシェルターには例え空きがあっても彼らは入れません。そうした人々を差し置いて、公園のテント・小屋がけのみを問題にする施策が偏ったものであることは明らかです。
 いったんテントや小屋を建てても、そこから追い立てられる先は、そのような路上生活です。テント・小屋はなくなっても、人はいなくなるわけではありません。そうした人々はより過酷で厳しい条件の中で夜を過ごし、じょじょに健康を蝕まれてゆきます。
 強制排除が「人殺し行政」と呼ばれることに故なしではないのです。
 実は全国で最初の一時避難所が出来たのが当の長居公園でした。その際、大規模な住民の反対運動が起きました。それは「野宿者の施設」を「迷惑施設」と考える人たちによって起こされました。
 しかし何ゆえ、いったん野宿に至ったというだけで、一般市民が「迷惑施設」と考える施設に彼らは隔離収容されなければならないのでしょうか? 集団生活や様々な制約のある生活が、犯罪者ならともかく、なぜ彼らにはそれが妥当なのでしょうか? それが「健全な市民感情」に沿う扱いなのでしょうか?
 このような処遇を行う社会、それを是認する市民感情には問題はないのでしょうか。

【野宿者問題の取扱い方の根本的問題】
 關市政は野宿問題、違法駐輪、生活保護を市政改革として取り組むべき問題の3本柱に掲げていると聞きます。国際的集客都市を目指す傍らで、公園に張られた野宿生活者のテントはイメージダウンにつながると認識されているようです。公園周辺の住民の中には、そこにテントが見えることで、自分たちの住む場所の資産価値が下がると言う人もいるようです。
 しかしながら、公園に張られた野宿生活者のテントが具現している様々な問題を見ないふりをするよりは、むしろそこにあった方がいいという考えがあります。
 そもそも野宿生活者が析出される背景のひとつに、野宿に至る水際でのセーフティネットの不備がまずあります。野宿に至る原因のほとんどは失業などによる収入の激減ですが、憲法で生存権を保障している日本において、失業のためにただちに野宿せざるを得ない状況に陥るなど考えてみるとおかしな話です。
 毎年、この豊かな国の大阪という都会で、200もの命が路上で失われている事実があります。
 いろんな調査から明らかになっているように、現在野宿をしている人の多くは日雇い労働などの経験者です。彼らは言わば高度成長期の日本の発展を底辺で支えた人たちとも言えます。
 その彼らがなぜここに至って野宿を強いられ、なかんずく社会から無視され、ゴミのように排除されねばならないのでしょうか。
 そのような日雇い労働者たちが社会保障の制度から漏れていた状況は長年放置されてきました。そしてひとたび野宿に至ると、そこに存在することも否定されるというのです。
 野宿生活者が大阪の街の恥だというのならば、その人たちが析出される原因を放置している行政は何も恥じないでいいのでしょうか。
 その間にも日本の社会はどんどん格差を拡げ、競争社会化しています。不安定就労の拡大にともない、「ホームレス状態」に陥る人はこれからも増え続けると思われます。すでに日本人の一割に達する人々がワーキング・プア状態にあると言われます。24時間営業店やネットカフェで夜を過ごす、従来とは違う形で「ホームレス状態」にある人も、若い人を中心に増えていますし、女性の野宿者も増えています。
 もはや追い出して排除すれば済む問題ではないと思います。
 公園のテントが排除されることによって、この一見豊かな国において、貧困ゆえに野宿せざるを得ない人々が生み出され続ける問題そのものが解決されるとは思われませんし、むしろその事実を隠蔽することになります。
 もし彼らがテントを持たない路上生活になった場合は、問題がさらに見えにくくなるだけです。大阪市内のテントは減りつつあるかも知れませんが、その分、路上生活の人々が増えているのでは何の解決にもならないと思います。なのに、大阪市の公園局は、減ったテントの数を業績としてあげているように見えます。
 例え公園を排除されても、野宿生活者は消えてなくなるわけではなく、どこかで生きてゆかねばなりません。現に長居公園には、昨年1月に靱公園や大阪城公園で強制排除されて避難して来た人もおられます。いずこからやって来て、またいずこかへ移動する。その繰り返しです。そのために多額の税金が投入されるのです。
 強制排除はそうした意味でも問題の解決を先送りにし、無視することになります。そして問題の根を肥大させ、解決不能なまでに増殖させる危険を孕んでいると言えます。それどころか、「野宿せざるを得ない社会」から、「野宿しないでもすむ社会」への努力や契機は、それが見えなくなることで失われてしまうかも知れません。
 のっぴきならぬ結果として、「そこに居る」ことをまず認めることから始めなければならないのに、やたら立てられる「不法占拠」という立て看板に見られるように、あるいは、行政代執行という、人が居住する住居の立ち退きではなく、「物件」の除却という手段で追い出しを行うことなど、それらはみな、野宿生活者という「人」がそこに居ることを意図的に無視していると言わざるを得ません。
 それは最大限の人権の侵害ではないでしょうか。