講演旅行から帰ってきました (わたしは人生の大半を講演に費しています)。そして、「理論」や「哲学」について延々と議論されたのを拝見して、かなり異様な論争だと思いました。いくつかお返事しましょう ── ただあらかじめ断っておきますが、わたしの方が事情をよく分かっていないだけかも知れません。
自分で理解していると思うかぎりでは、わたしとマイクが (もしかしたら他のみなさんも) 「理論」というものを持たず、そして それゆえに、物事が進行する理由を まったく説明できていないと非難されたことから、この論争がはじまりました。「理論」とか「哲学」とか「理論的構築物」とかいったものに救いをもとめて、世界で起きている出来事を理解して取り組もうとする わたしたちの活動の欠陥を 修繕しないといけない、というのです。わたしは、マイクを代弁するつもりはありません。これまでのところ、わたしのお返事は、ほとんど 35年前に書いたことをそのまま繰り返すだけでした。「ポストモダニズム」が文芸知識人文化で大流行するよりもずっと前のことです: 「もし一式の理論があって、それがよくテストされ検証されたもので、外交問題や国内・国際の粉争解決に利用されているのならば、その存在はしっかりと機密保護されてきたのだろう」、もっともこれはかなり「擬似科学くさい虚飾」なのですが。
わたしの知るかぎり、これは 35年前にも正しい説明でした、現在でもそうです。さらに、人間の諸問題を研究すること一般についていえることです。そのとき以来あらわれたものについても、まったく合致します。その間に変化したことは、わたしの知るかぎりでは、本人たちが「理論」や「哲学」と呼ぶものの提唱者の仲間うちでの自画自賛や馴れ合いが 爆発的に激増したことです。が、「擬似科学くさい虚飾」を超えるようなものはほとんどありませんでした。なかには、既に書いたように、たまには本当におもしろいものもあるのですが、しかし、わたしが時間と労力をさいている実際の世界の諸問題にとっては まったく無意味です (特定の質問に返答したときにふれた、ロールズの重要な仕事もこの例です)。
この事実には注目してきました。立派な哲学者で社会理論家の (活動家でもある) アラン・グローバード が、何年か前に面白い論評を書きました。ロバート・ノージック が ロールズ に「リバタリアン」的な反応をしたことと、さらにそれへの反応についての論評でした。彼は、その応酬がとても熱列なものだったと指摘しました。評者に続く評者がみな議論の力強さやなんかを褒めたたえたました。ところが、そのうちの誰も現実世界の結論を (既知の結論をのぞいて) まったく受け入れなかったのです。この指摘のとおりです、このことが何を意味するのかも、彼の言うとおり。
「理論」や「哲学」の提唱者たちが、自分たちの主張をはっきりさせたいのなら、とても簡単な方法があります。ただ、「秘密」にしていることを わたしに 教えてくれればいいのです: よろこんで見せていただきましょう。わたしはかつて何度もお願いしたことがあります、そして今も回答を待っています。簡単なことにちがいないのですが: わたしやマイク、その他大勢が (事実、世界中のほとんどの人々は、思うに、矮狭できわめて自己完結的な知識人サークルの外にいます) 関心を持っている問題 や 関心を持つべき課題 に「適用される、よく検証され確認された一式の理論」の例をいくつかあげてくれさえすれば良いのです。たとえば、わたしたちが話したり書いたりしている問題や課題、その他の似たような問題でも構いませんから。別な言い方をすれば、わたしたちが勉強して応用しろと言われている「理論」や「哲学」の諸原則から、妥当な議論によって、わたしたち や 他の人々 がまだ到達していない 他の (かつ、より良い) 見地に基づく 結論に至ることを示してください。なお、この「他の人々」には、正規の教育が不足している人々も含まれます。彼らこそ、まったく「理論的」難解さのないコミュニケーションを通じて、あるいは しばしば彼ら自身で、そういった結論に難なく到達する典型的な人々なのですから。
もういちど言いますが、これは簡単なお願いです。以前にもお願いしたことがあるのですが、あいかわらず わたしは無知なままです。わたしも、この事実からいくつか確かな結論を導きましょう。
提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんにみえるからです。しかしもし、これもまた 深遠さを認識する能力がわたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつうの言葉で表現し直してください。そして、それがなぜ 他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのか を示してください。三音節の用語や、支離滅裂な文章や、誇張したレトリックなんかは (少なくともわたしにとっては) 大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう ── もっとも、それが治るものならば。もしかしたら、治らないものなのかもしれません。この可能性については、後で再検討しましょう。
これらは、とても簡単に応えられる要求です、もしこれだけ熱烈に怒りをもってなされる主張に なんらかの根拠があるのなら。しかし、このシンプルな要求に応えようとするのではなく、返ってくるのは憤怒号叫ばかり: これらの要求が「エリ−ト主義」だとか「反−主知主義」だとかいった罪を示すもとのいってあげつらう ── 明らかにこれは、仲間内だけで話して (わたしの知るかぎり) わたしが好んで住んでいるような世界には 一歩も足を踏み入れようとしない 知識人たちの 自画自賛や馴れ合い社会にとどまろうとする「エリ−ト主義」ではないのに。わたしのいう世界については、わたしの講演や著述のスケジュ−ルを並べれば、わかっていただけるでしょう。もっとも、この議論に参加しているほとんどの人は、おそらく既に知っているか、簡単に見付けることができると思いますが。そしてどういうわけか、その世界では「理論家」を見たことがありません。また、わたしも彼らの会議やパ−ティに行ったことがありません。簡潔に言って、それぞれ異なる世界に住んでいるようです。そして、どうして 彼らの世界ではなく わたしの世界が「エリ−ト主義」なのか、理解しがたいものです。その反対が事実なのではないか と透けて見えます、大げさにいうつもりはありませんが。
他の面を付け加えるなら、講演依頼があまりにも多く殺到するので、わたしも行きたいもののうちごく一部にしか応じることができません、そんなわけで 他の人々を勧めています。しかし不思議なことに、「理論」や「哲学」の提唱者を推薦したことは一度もありません。彼らに出くわしたこともありません。それどころか、彼らの名前すら、見かけたことがありません。いくらでも簡単に例をあげることができますが、大衆運動や活動家のグル−プや組織・一般的なコミュニティ・大学・教会・労働組合など、国内外の聴衆・第三世界の女性・難民などとの、わたし自身の (かなり広範囲の) 経験を通して、まったく皆無なのです。どうしてでしょう?不思議です。
ですから、この討論全体が、異様なのです。一方では、怒りの非難と弾劾があり、他方、その非難弾劾を支持するだけの証拠と議論を要求すると、それに対してより一層の憤怒非難が返ってきます。しかし、驚くべきことに、証拠や議論はまったくみられません。結局、片方は再びどうしてなのか尋ねることになります。
わたしが 何かを見逃しているというのは、まったくあり得ることです。または、パリの知識人とその追随者によって過去 20年間に明らかにされた深遠な知見を理解する知的能力が わたしに欠如しているだけだというのも、まったくあり得ることです。わたしはこのことに心をひらいていますし、これまでも長年そうしてきました。その間似たような非難もありましたが ── わたしの質問に対する返答はひとつもありませんでした。繰り返しになりますが、これはシンプルで、簡単に応えることのできる問いです、もしそこに応えがあるのなら: もしわたしが何かを見落としているなら、それが何なのか示してください、わたしの理解できる用語で。もちろん、もしそれがまったくわたしの理解を超えているというのも、あり得ることです、そうならわたしには勝ち目がありません。そしてわたしに理解できると思われることをやり続けるしかありませんし、おなじようなことに関心をもち 理解しているような人々と連携し続けていくしかありません。(わたしは歓んでそうします。自分たちのことだけに閉じこもり、他のことにはほとんど係わろうとしない知識人文化のセクターには、今も何時でも、まったく興味ありません)。
誰ひとりとしてわたしが見落としているものを示してくれないところをみると、残されたのは二番目の可能性です: わたしには理解能力が欠けているという可能性です。これが真実かもしれないという点はよろこんで認めますが、しかし残念ながら、わたしはまだ疑いをもっています。それだけの理由が十分にあると思うのです。世の中には、わたしが理解していないことも、たくさんあります ── たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理が最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームから、わたしは二つのことを学びました: (1) その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたしが理解できるレベルで説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。 (2) もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダやラカン、リオタール、クリステヴァら ── フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど ── は、わたしにも理解できないことを書きます。しかし、(1) も (2) もできなかったのです。自分は理解しているという誰ひとりとしてわたしに説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。このことから、二つの可能性が考えられます: (a) 知識人の生活において、なんらかの新たな進歩、おそらく遺伝の突然変異みたいなもの、があって、奥行きや深遠さの点で量子理論や位相数学などを超越するような「理論」形態を生んだ。あるいは (b) ・・・はっきり書きたくありません。
繰り返しますが、わたしは 50年ほどこの世界で生きてきましたし、「哲学」や「科学」と呼ばれる分野だけでなく思想史でも自分自身かなりの量の仕事をしてきました、さらに 科学・人文・社会科学・芸術などの 知識人文化で 多くの知人ができました。そのことから、知識人の生活について、わたし自身の結論を得たのですが、はっきり書きたくないものです。しかし他の人々には、「理論」や「哲学」の素晴らしさを教えてくれる人に対して、その主張を正当化してみせるよう求めることをお勧めします ── 物理や数学、生物学、言語学やその他の分野の人々なら、歓んで求めに応じて、真剣に、原理や理論がどんなもので、どんな証拠に基づいていて、自明でないことをどうやって説明するのか、といったことを説明してくれます。こういったことは、誰にとってもフェアな要求です。彼らが応えられなかったら、似たような状況に関するヒュームの教えに従うことをお勧めします: 火の中にほうりこんでしまえ。
具体的なコメント。フェットランドから、わたしが「パリ学派」や「ポストモダンのカルト」という時に誰を指しているのか質問がありました: 上に挙げたのが一例です。
次にフェットランドは、なぜわたしがそれを「切り捨てる」のかと問いました。理にかなった質問です。では、デリダを取り上げてみましょう。まずはじめにお断りしておきますが、わたしは以下のようなコメントを証拠無しにつけるのは好きではありません。けれど、参加者のみなさんがド・ソシュールの詳細な分析を望むのか懐疑的です。こと、このフォーラムで。ですから、そんなことはしないでおきましょう。もし、明示的にわたしの意見を問われることがなかったら、こんなことは言わないでしょう ── また、もし裏付けを求められたら、そこに時間を割くメリットは無いと思う、と応えるでしょう。
とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献 の批判的分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして 彼の議論は、以前と変わらず、わたしが子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメントで申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。
この手のカルト (わたしにはそう見えます) の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間の議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能な言葉で ── 彼はフランス語で、わたしは英語で)、ラカン (彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的なペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事は意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ (彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから ── そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしています。わたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている (なかには、わたしが論じたこともある) 文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは (複雑な饒舌で装飾されていても) 当り前 か 間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんなものでした。他の分野で自分が理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた (1) と (2) に係わるような問題にぶつかります。ですから、デリダはわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。もしはっきりしないのなら、もっと沢山の名前を挙げることができます。
同じ認識 (ただし、文学者内からの) をずっとよく反映した文学的叙述に関心のある人々のためには、わたしならデイヴィッド・ロッジをお勧めします。わたしに判断できるかぎりでは、かなり正鵠を射たものです。
フェットランドはまた、わたしが「ニューヨーク・タイムズの言動や混乱を暴露する」ことに多くの時間を割く一方で、こうした知識人サークルを「そっけなく切り捨てる」ところが「特に不可解だ」といいました。だから「どうしてこの人々に同じ扱いをしないのだろうか」と。フェアな疑問です。単純な応えがあります。わたしが問題にする文章 (ニューヨーク・タイムズやオピニオン誌や沢山の学術研究など) は、理解可能な文体で簡潔に書かれていて、世界に多大な影響を持っているもので、思想や表現がそこからはみ出すことのないようにドクトリンの枠組を規定するものです。そして、我々の社会のドクトリン・システムでもそうですが、それはかなり成功しているのです。これは全世界で苦しんでいる人々の身に起きることに、巨大な影響を及ぼすものです。そうした人々に、わたしは関心をもっています。ロッジが叙述する世界に住む (正確には、わたしがそう考える) 人々とは違う人々です。ですから、そうした文章は真剣に扱うべきものなのです、少なくとも、普通の人々と彼らの問題を気にかけるのであれば。フェットランドが言及している文献には、わたしの知るかぎり、このような特徴はひとつもありません。それは確かに、なんの影響力も持っていないのです、同じサークルの中の他の知識人だけに論じられるだけなんですから。さらに、たくさんの一般大衆 (わたしがいつも語りかけ、一緒に会合をもち、手紙をかき、ものを書くときに念頭にある人々のことで、一般にポストモダン・カルトには、わたしと同様の認知障害があるようなのに、なんの困難もなくわたしの言うことを理解する人々のことです) 理解可能な説明をする努力も、わたしの認識では、まったく為されていません。また、世界にどう適用されるのかを、先にわたしの述べた意味 (かつて自明ではなかった基礎的な結論) で示す努力も、見たことがありません。知識人たちが、自分たちの名声をつり上げて、特権や権威を増強して、人々の奮闘に実質的に取り組むことから離れる、といった方法にはまったく関心がないので、そこには時間を浪費しません。
フェットランドは、まずフーコーからはじめることを提案しました ── 彼は、既に繰り返し書いてきたように、他の人々とは少し違います。これには、二つの理由があります: まず少なくとも一部は理解可能なことを書いていると判ります、全体としてはそれほど面白くありませんが。第二に、彼は 個人として 仲間内のハイソな特権エリートのサークルに閉じこもって 他の人々と関りあわないように自分を縛ったり、離れたりはしませんでした。フェットランドは次に、まさしくわたしが求めたことに応えています: どうしてフーコーの仕事が重要と 彼が思うか をいくらか説明してくれました。これは先へ進むのにまっとうな筋道です。思うに、わたしがどうしてこの全てに「切り捨てる」ような態度をとるのかを理解する助けにもなるでしょう ── 事実、まったく関心がないのですが。
フェットランドが説明したことは (正確には、わたしがそう確信するには)、わたしには重要とは思えません。なぜなら、だれもが知っていることだからです ── 社会史や思想史の細部を別にすれば、そしてこの点についても、注意したいことがあります: そのいくつかは、わたし自身が相当仕事をした分野のことで、そこではフーコーの学識も信用できないものだと分かっています、ですからわたしの知らない分野についても、独立調査はしていませんが、信用もしません ── このことは、出版されている 1972年からの議論で少し取り上げました。17−18世紀については、もっと優れた研究があると思います。わたしはそれと、自分自身の調査を維持します。しかし、他の史的研究を別にして、その「理論的構築物」や説明にうつりましょう: 「過酷な抑圧のメカニズム から もっと繊細なメカニズム への 大きな変革」があって、人々が自ら、強く熱烈にも望むようになったといいます。これは本当のことでしょう、事実、まったく分かりきったことです。これがもし「理論」なら、わたしへの批判はすべて間違っています: わたしも「理論」を持っていることになります。わたしはまさに、ずっとそのことを言ってきたのですから、その理由や歴史的背景も加えて。ただし、理論として叙述することなしに (それは、そんな用語にはメリットがないから)、そして、幻惑させるようなレトリックも抜きに (それは、単純なことだから)、さらに、斬新なことだと自己主張することもなく (それは、分かりきったことだから)。統制・強制する権力が減衰したことは長い間よく知られてきたことで、宣伝産業の実業家 ── 彼らはこのことをすべてよく理解していました ── が 20世紀初頭に「世論の統制」と呼んだ手段に訴えることがより不可欠になったのです。その理由は、ヒュームが 18世紀にみたように、「人が自分自身の感情や情熱を支配者に委ねることによる暗黙の服従」が、最終的には意見や態度を統制することにかかっているからです。どうして、この分かりきったことが突然「理論」や「哲学」なんかになるのでしょう?他の人々こそ、説明しないといけません。ヒュームなら、笑ったことでしょう。
フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀の刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値があります。しかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプルに表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものでしかありません。フェットランドが説明したことは、どれもわたし自身がこの 35年間に書いてきたことで、いつもそれが明白だったことを示す資料を挙げてきました、そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例で それ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃、搾取やテロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコーの著作にはみられません。わたしに理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。
わたしの考えをはっきりいうと、フェットランドは確かに正しいことをしています: 彼がフーコーの著作から「重要な洞察や理論的構築物」と見なすものを示してくれました。わたしが問題にしているのは、その「洞察」というのはわたしにとって慣れ親しんだもので、そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。フェットランドは、わたしがこれを「間違っていて、役にたたず、あるいは虚飾に過ぎない」と考えるのかどうか問うています。ノー。歴史的なところは、注意深く扱わねばならず、通常以上に独立検証する必要があるものの、面白く思えるものもあります。長らく明白で、もっと簡潔に表現されてきたことを言い替えているところも「役にたたない」ことはなくて、事実有益です、ですからわたしや他の人々がいつも同じことを指摘してきたわけです。「虚飾」かどうかは、わたしの意見では、大部分がそうです。だからといって、とくにフーコーを非難することはしません: それは、パリの知識人文化の堕落に深く根付いたもので、彼がそこに陥ってしまうのもごく自然なことですから。彼の名誉のために言えば、彼自身はそこから距離をおいていました。とくに第二次世界大戦以来顕著なこの文化の「堕落」については、また別な問題ですが、別なところで論じたことがあるので、ここでは触れません。率直に言って、みなさんがどうしてこのフォーラムに多大な関心を寄せるのか、わたしにはよく分かりません。わたしはあまり関心がありません。種々の立身出世に専心したり、自分たちのの偏狭で (少なくともわたしには) おもしろくもないサークルの中でその他いろいろ追い求めるような、エリート知識人の習性を調べることなんかよりも、わたしの意見では、ずっと重要で為すべきことがたくさんあります。以上、大まかなものです。もういちど強調しておきますが。こうしたコメントを証拠無しに述べるのは不公平なことです: しかし問われたので、わたしに分かった特定のポイントについてだけ返答しました。わたしの一般的な意見を問われたら、わたしにできるのは見解を示すことだけです。あるいは、もしもっと具体的な質問が提起されたら、取り組みましょう。わたしは、興味のない話題について文章を書きたくはありません。
「理論」や「哲学」についての主張を聞けば 理性的な人なら誰でもすぐに思い付くような シンプルな要求に対して、誰かが応えてくれることでもない限り、わたしは自分にとって意味のあることや啓蒙的と思う仕事を、世界を理解したり変えることに関心のある人々とともに、続けて行きます。
ジョンB は「聞き手が知的枠組をもっていなかったら、平易な言葉だけでは不十分だ」と指摘しました。正確で、重要な指摘です。しかし、そんな場合の正しい対応は、曖昧で無駄で複雑な冗漫に訴えたり存在しない「理論」を装うことではありません。そうではなく、聞き手が受け入れている知的枠組を疑ってみるように求めて、まったく平易な言葉で 考えられる代案を提示してみることです。わたしは公式な教育が不足していたり、時にはまったく受けたことのない人々と話すことがありますが、何も問題ありません。教育の階段をのぼるに従い、それだけ深く教化されるに伴い、エリート教育の相当部分が占めている自主的な服従が進むほど、かえってより難しくなる傾向があるのは確かですが。ジョンB はこのフォーラムのようなサークルの外の「この国の他の人々にとっては、彼は理解されないのだ」(「彼」はわたしのこと) と言います。ありとあらゆる聴衆と係わってきたわたしの経験に、真向から反しています。むしろ、わたしの経験はちょうどここに説明したとおりでした。理解されない度合が、大雑把にいって、教育水準に比例します。たとえば、わたしはラジオにたくさん出演したことがありますが、聴衆がどういった人々か、通常アクセントなどからかなり容易に推測することができます。何度も気付いたのは、聴衆の教育水準が貧しくて低いほど、背景知識や「知的枠組」の問題を飛ばすことができることです。なぜなら、それは明白なことで、誰もが認めていることなんですから。そして、わたしたち皆の問題に進むことができます。もっと教育のある聴衆の場合、これがずっと難しくなります。イデオロギー的な構築物を解きほぐさないといけないのですから。
わたしの書いた本を読めない人もたくさん居るというのは確かです。しかし、考えや言葉が複雑だからというわけではありません ── まったく同じ問題について、まったく同じ言葉を使っても、形式ばらない議論にはまったく支障がないのですから。理由は別なところにあります。もしかしたら部分的には、わたしの書き方に欠陥があるのかも知れません。あるいは、かなりヘヴィな資料を提示しなければならないので、その結果読み難いものになってしまうからかも知れません (少なくとも、これはあるのではないかと感じています)。こうした理由によって、たくさんの人々が、同じ題材を、しばしばまったく同じ言葉で、パンフレットの形やなんかにします。誰にも、それほど大きな問題はないようです。 ── でもやっぱり、Times Literary Supplement や専門的な学術ジャーナルなどの書評では、何を言っているのか分けが分からないこともありますが、そういうのはよくあることです。なかには滑稽なものもあります。
最後に、わたしはこれまでにも書いてきましたが (たとえば、Z マガジンでの討論や、『501年: 征服は続く』の最終章など)、近年、知識人階級の行動に著しい変化が起きています。左翼知識人たちは、60年前には労働者階級の学校で教えたり、『百万人のための数学』という (百万人の人々に数学が分かるようにした) 本を書いたり、大衆運動に参加したり講演したりしていたのに、もう、そんな活動にはかかわらなくなってしまいました。自分たちは、おまいらよりずっとラジカルだと示すのは上手だけれど、現実の問題や悩みを抱えた人々の世界で、彼らにできるはずのことをしてほしいという要求がはっきりと膨らんでいるこの肝心なときに、姿をみせないのです。この国は、たった今、とても奇妙で不吉な状態にあります。人々は恐れ、怒り、幻想から目覚め、懐疑的で、混乱しています。これが指導者の夢だったのかもしれません、マイクが一度そう言うのを聞いたことがあります。これはまた、扇動政治家や狂信者を育む土壌でもあります。似たような状況下でその先人たちが繰り返してきたメッセージで、彼らは大衆の支持を大きく獲得することができます (そして事実、既にそうしています)。わたしたちは、そのあげく過去にどんな事になったかを知っています。再びそうなることもあり得ます。かつて少なくとも部分的には 一般大衆と係わりその問題に従事してきた左翼知識人が埋めてきていた、巨大なギャップがここにあります。これは不吉な兆候だと、わたしは思います。
お返事終わり、(正直なところ) この問題に関するわたしの個人的な関心も尽きます、あの明白な質問に対する返答でも無いかぎり。