この文章は当初、流言飛語のまえがきとして公開した
チョムスキーの文章を読むための、ひとつの導入としてどうぞ。
チョムスキーとエドワード・ハーマンは 1977年の書評記事で、カンボジア報道において、根拠の明示もなく又聞きを繰り返して情報が歪んでゆくさまを書いた1。1979年には、カンボジアと東チモールにおけるふたつの大虐殺の報道を批判検討した内容を含む 二巻本の『人権の政治経済学』2を出版した。第一巻の序文に明記されているように、この中で メディアはなぜカンボジアにインドネシアと東チモール以上のニュース価値を見出すのか を考察している。チョムスキーたちは、合衆国によるカンボジアへの秘密爆撃が看過され、東チモールの虐殺もカンボジアに匹敵する (人口比ではそれ以上の) 酷いものであるにもかかわらず、ほとんど報道されなかったことを強調した。
インドネシアでは 1965年にスハルト政権による農民の大殺戮があった。CIAはこの大虐殺を、ヒトラー/スターリン/毛沢東の犯罪にも引けをとらぬもの と報告していた4。最近公開された文書によると、合衆国と英国そしてオーストラリア政府がスハルトを支援していた5。この大虐殺は 当時欧米で熱狂的に歓迎された6。
1969年からニクソン/キッシンジャー政権の合衆国は、直接カンボジアに秘密爆撃を加え7、1970年にロン・ノル政権が樹立(事実上合衆国の傀儡政権)。爆撃は続き, とくに 1973年夏場には 3-4ヵ月にわたって毎日のように B52爆撃機による空襲が続いた。この事実は1973年には合衆国国防長官が認めている8。実はラオスにも爆撃していた。ポル・ポト派(クメール・ルージュ)が次第に勢力を拡大して 1975年 4月にプノンペン制圧。 すぐに市内から全住民を強制退去させた。内戦前に 60万人ほどだったプノンペン市内の人口は、農村から逃れてきた人々で溢れて、200万人ほどに膨れあがっていたという。そのころには、農地はずたずたになり都市部でも食糧が欠乏していた。
以後数年間鎖国状態。ポル・ポト派による処刑や虐殺はこの頃のこと。同じ 1975年にはインドネシアが合衆国の外交援助や武器供与を得て東チモールへ侵攻し、大虐殺を繰り広げていた9。その後23年間で、人口の3分の1に相当する二十数万人が殺された。
東チモールを占領していたほとんどの時期、スハルトに対する武器と軍事機材の最大の提供者は英国だった5。チョムスキーは1978年に東チモール問題で国連に証言した。このとき妨害があったが、後に日本の大使館による妨害だったと判った。主に日本と合衆国の支援によって、インドネシアは虐殺の責任を免れている10。チョムスキーとハーマンが調査したところ、合衆国ではほとんど東チモールの報道がなされてこなかった11。さて、日本ではどうだったか3。
ポルポトの虐殺がさかんに報道・誤報される一方で、東チモールのことは無視され続け、そこで繰り広げられた大殺戮の惨状も、まだ十分には把握されていない13。カンボジアの実態もきちんと調査されないまま、被害者を助けるための具体的な施策はなにも為されなかった。提案されることさえなかった。それどころか ──
1978年 12月末、ベトナムがカンボジアに侵攻。翌年 1月初には、ベトナム軍によるプノンペン「解放」。ポル・ポト派は放逐され実質的に処刑や虐殺もおさまった。ヘン・サムリンが「カンボジア人民共和国」を樹立。民主カンプチア(DK)が国境地帯でベトナムへの凶悪な攻撃を続けていたとの理由で、ベトナムは武力攻撃に対する自衛の権利を主張した。新聞報道は、べトナムが国際法を踏みにじったといい、合衆国は中国による侵攻を支援したほか、きびしく制裁をかけた12。これは軍事介入によって残虐行為をやめさせることができた「人道的介入」と言い得るかもしれないものだったが、合衆国が罰したのは介入したベトナムの側だった。さらに、このときから 合衆国によるポル・ポト支援 がはじまっていた。さかんに国際法違反が非難され、2月には中国軍がベトナムへ侵攻した。中国・日本・合衆国 各国政府の意向もあり、この間 1989年にベトナム軍がカンボジアから完全撤退するまで、国連カンボジア議席はずっとポル・ポト派が占め、さらに 1993年まで議席を維持していた。ポル・ポト本人は 1998年まで健在だった (享年 73歳)。
ヘン・サムリン時代に合衆国がポル・ポト派を援助していたことは、ブッシュ(父)政権が 1991年に認めた。1980年代後半に、当時の反体制派 (ポルポト派も含む) への援助額は公式数字で 500万ドルを超え、さらに議会に隠れて CIA は 2000万ドルから 2400万ドルを提供していた。これは 食糧など「人道的」なものとされていたが、余剰金が武器の購入にまわされたのが現実で、現在もカンボジアに残っている アメリカ製・中国製・旧ソ連製・ベトナム製・インド製・ブルガリア製など国際色豊かな地雷がそれを物語っている。 カーター大統領の国家安全保障顧問だったズビグニュー・ブレジンスキーは、1979年の春にこう述べた: 「私は、中国にポル・ポトを支援するよう促した。タイにも促した。問題は, カンボジアの人々をどうやって助けるかであった。ポル・ポトは忌まわしい存在だったので、直接、ポルポトを支援することはできなかった。けれども, 中国にはそれができた」 ── ベトナムが侵攻してポル・ポト派を放逐し、虐殺が止んだ頃のことだ。
虐殺の規模については 死因と期間に注意する必要がある。 当時まとまった調査がほとんどなされなかったこともあり、無根拠な数字を除けば いくつかにたどり着く. Ben Kiernan、Michael Vickery、David Chandler、フィンランド政府による調査などがある。ロンノル政権のはじまった 1969年からベトナムが侵攻した 1978年までまとめて集計されることが多いが、前半のロンノル時代は合衆国による猛爆撃の時期でもあるので、これをすべてポルポト派の虐殺とするのは不適切だ。期間を区別できる調査によると, 前半の死者数は 50万人(Michael Vickery) とか 60万人(フィンランド政府) といわれる。また、同時に 200万人の難民がでたという。ポルポト時代では、通常の死亡率を超える死者数 75万人のうち 15-30万人が処刑よるとされる(Michael Vickery)。フィンランド政府の調査では、飢餓・病気・過労なども含めて 100万人。Ben Kiernan らの Cambodian Genocide Program では、ポルポト時代の死者総数を 170万人としている。
欧米でしばしばみられる 200万という数字は、ラクチュールによる 根拠も無いまま流布した数で、カンボジアの人々がよく口にする 300万という数字は、ベトナム側がカンボジアに侵攻した頃さかんに繰り返した数字だといわれる。いずれにせよ、合衆国の爆撃による直接・間接の死者数を無視することはできない。紛争地域への空爆は、たびたび紛争の激化を招いてきた18。おさまるのは、たいてい破壊され尽くした後のことだ。
インドネシア軍が東チモールへ侵攻した 1975年からの 5年間では、概ね 20数万人(人口 70万人)が虐殺されたといわれている。これは, 熱心に資金援助している合衆国政府や日本政府が少し動けば止めさせることのできたものだ。介入しなかっただけでなく、実際には、インドネシアを支援し続けてきた。
その後にも度々虐殺が続き、さらについ先日、2003年現在にもインドネシア国軍はアチェに侵攻した。
過去 20年間に安保理で拒否権を行使した回数で、合衆国は群を抜いてトップに立っている14。さらに合衆国は国連総会で、侵略や国際法、人権侵害、武装解除といった問題について、常に単独であるいは少数の従属国とともに、反対票を投じてきた15。1980年代にはニカラグアに対する「法外な武力行使(国際テロに他ならない)」を止めるよう国際司法裁判所が判決を下したが、合衆国はこれを無視して爆撃をエスカレートさせた16。このような合衆国を指して、チョムスキーは合衆国はテロリスト国家である、という17。自分たちの決断で止めさせることのできる殺戮を放置するばかりでなく、支援し加胆しみずから実行してきた責任は重い。
チョムスキーを「反米」だというのも無意味だが、「ポルポト擁護」だと非難する側がどれだけの事実を省略しているか、ポルポトを戦犯で国際法廷に問う気運が盛り上がった頃の ハーマン「ポルポトとキッシンジャー」をみると良く分かる。まずなにごとも、事実を確認することからはじめたいものだ。
チョムスキーのメディア批判・プロパガンダ分析は、後にハーマンとの共著 "Manufacturing Consent", 単著 "Necessary Illusions" にまとめられた。