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LaNotteEuropea
ヨーロッパの闇夜あるいは骰子の一擲
- traduzione Giapponese / フランコ・ベラルディ(ビフォ) 2016年6月27日
イギリスの国民投票をうけてヨーロッパ連合の命脈を断たれることはないか、わたしには知る由もない。いずれにせよ、まともな人々の心の内ではとっくにEUなど死んでいたのだ。あの、アレクシス・ツィプラスが公式に侮蔑されたときから。あるいは、かれとともにシリツァそしてギリシャ全人民の62%が反緊縮に票を投じた2015年7月から。イギリスの国民投票を一見して分かることは、まさにヨーロッパ権力の強者と弱者に対する扱いが大違いな点に他ならない。2011年にはゲオルギオス・パパンドレウが(EU/IMF/ECBとの)トロイカ覚書について国民投票を実施する考えを表明して辞任を強いられ、そして2015年ツィプラスは7月5日の国民投票結果(反緊縮)を反故にさせられた上ヨーロッパ金融法廷の門前に丸裸でたたされたというのに。
左翼の裏切りと労働の不安定化により社会的な自律性が言葉を失ううちに、ヨーロッパ悲劇はたった二人の役者によって演じられてきた。金融システムと、人種差別的ナショナリズムと。そして、かれらの双方ともがいまや調停者の不在に直面するだろう。会社=社会が立ち去り労働運動も姿を消したあと銀行マンとネオナチだけが居残るというのだから。この惨状をもたらした責任はしかし、誰にあるのか?
主たる責任のひとつは、過去数十年にわたって労働者の合意を金融支配の独裁にみずから差し出してきた左翼党派にある。なぜ貧しい個々人がブレア、ダレーマ、オランド、レンツィなどに票を投じなければならず、かれらに投票しかれらに給与を支払う人々の利害と期待を、どうして党派官僚たちはシステマティックに裏切ることができるのか。この点は遅かれ早かれ歴史家たちの研究テーマとなるにちがいない。さしあたりの説明としては恥知らずな無知無学、心理的服従ないし政治的従属、純粋かつ単純な敵意などが考えられる。ともあれ、そうこうするうち同時にまたかれらは、社会の貧困化をもたらし制御不能な金融システムを強化し、かつて国家社会主義と名付けられた何者かをかつてない規模でよみがえらせたのだ。
2005年の国民投票が警報を鳴らしていた。フランスとオランダの労働者たちはヨーロッパ統合というプロジェクトおよびそれを謳うEU憲法の双方にノーを突きつけたのだ。かれらが拒否したのは、労働の不安定化マシンへとEUを再編することであり、賃金水準の一般的低廉化である。左派はその警報が聴こえないふりをして、そのことの意味と重大さを等閑視し公正を破壊して平和をまもることが出来るかのように思い込んだ。だが、そんなにうまく事が運ぶはずはない。
ヨーロッパというプロジェクトは、ほんらい国際主義と社会的連帯とをその構成要素としていたはずだが、そんなことは欧州植民地主義500年の遺産ぬきにおそらく実現不可能なものだったのだ。富の再分配プロセスを始動させることによってのみ、そして何百万の人々がその恩恵をこうむることで植民地支配による戦争と貧困から脱出できる条件を確立することによってのみ、ようやく統合プロセスを端緒につけることができる。しかし左派はこの画期的問題に正面から取り組もうとせず、その植民地主義への対応は、もっともおぞましいやり方をしている。
ヨーロッパ連合はひとつの要塞へと転化し、その外壁を閉鎖して境界の内側では金融資本の卓越を警護してきた。その帰結がここにある。すなわち欧州大陸の大部分を占める多数派となりつつある人種差別主義と、そしてネオリベの牙城に他ならぬイギリスでの国民投票におけるその勝利だ。ヨーロッパの闇夜がどれだけ長く続くかは分からない。ただし夜が明けるとしたら、それはただ労働者たちの運動がヨーロッパを地盤に再組成し、さらに世界の南北間での富の再分配を最重要課題にすえて、また資本蓄積と経済成長のパラダイムから脱して知性の自律性へとシフトするとき以外にはない。
わたし自身なんらブレグジットを信じ込むものではない。あのくにの過半数を超える市民が票を投ずることでジョー・コックスを殺したネオナチを支持したなどとは思わない。だがまた同時に次のことは認識しておくべき事実だ。ようするにイギリスの労働者たちがナショナリズムに転じたとしても、それはたんに2005年のフランス・ドイツにおけるノーを反復しているだけのことなのだ。
イギリスの労働者たちが厖大な離脱票を投じたのは歴史的大失態にちがいない。まさにマーガレット・サッチャーのお膝元で、ネオリベによる社会的なものに対する反撃はその号砲をならしたのだ。だからイギリス労働者の敵は、ヨーロッパではなくサッチャーの遺構なのである。イギリスがEUから離脱しなければならないのではなく、ヨーロッパ連合の方こそ悪しきイギリスから解放される必要があったのだ。残念ながらその悪しきイギリスと契約したEUは、急速に社会を貧困化させ労働を不安定化させ金融システムの手中へと権力を集中化させるマシンへと化していたのであり、もはや遅すぎたようだ。それゆえにイギリス労働者たちが離脱票になびいた理由の相当部分は、依然として十分に理解できるのである。
では次は? 左派の連中が銀行マンに儀式的にくりかえすように、より政治的なヨーロッパが必要なのだろうか? だがヨーロッパ社会に求められるのは政治的なものなどではなく、これまでとはちがうポリシー、教育研究の私有化ではなくて知性の自律性にフォーカスした政策、労働時間をへらして資源を再分配するような政策ではないだろうか。
こうしたことが起こりうる条件は存在するだろうか? ない、そんなことは分かっている。というのも左派政党の裏切りと労働運動の構造的弱体化のせいで、可能なオルタナティヴにのこされた余地は超越的金融至上主義と人種差別的主権国家主義の間隙へとおそろしく切り詰められてきたからだ。だが、ヨーロッパの危機が人々の日常生活に何年もダメージを与えつづけて不幸なことに市民的平和をますます壊れやすいものにしていくとなれば、わたしたちに課せられた任務は、古きレーニンの標語をうまく現代語訳することだろう。すなわち「帝国主義戦争を革命的内乱に転化せよ」だ。
ソヴィエト10月革命から100周年を迎えるいま、ドグマぬきに思考する人々が問うべきことは、このインターネット時代すなわち認知的労働と不安定労働の条件下において10月革命の意味することは何か? これであるように思われる。ヨーロッパが闇夜に沈むあいだ、この問いに応えるためにわたしたちは、目を醒ましておかねばなるまい。
- autore: Franco Berardi Bifo, Bologna
- originale(it): http://operaviva.info/la-notte-europea/
- traduttore: Kazuya SAKURADA, Osaka / 櫻田和也 2016年07月01日
Claire Fontaine Untitled (Castor #1.), 2013.