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神は細部に宿る?

神は細部に宿るなんてマイスターの有難い格言は、しばしば胡散臭い自己啓発本にも引用されてあるようですが、どうやら、あたしたちの未来のヒントにおいて言えば、確実に導きは細部に点在しているようです。

さる2月24日、キャバ嬢でも、だれでも、労働法は通るんだよ!―キャバクラユニオン・労働争議の実践からわかること―と題したイベントを、ユニオンぼちぼちとキャバクラユニオンで行ったある一幕、その場でのキャバクラユニオン代表の田中さんが講演の瞬間にも、(もしかしたら)神が宿るほどの細部がありました。

キャバクラユニオンでは、未払い賃金や働いている中でのトラブルを抱えた相談者の人と一緒に、未払いの賃金を計算したり、団体交渉申入れ書を作ったりしているそうです。手慣れた組合員がそれらの作業を肩代わりせずに、あえて一緒に作業を進めることを大切にしているそうです。トラブルを抱えた当事者を主役にすることは徹底して、団体交渉でも当事者が直接自分の言葉で自分の要求を言えるように、予行演習までするこという徹底ぶりで、そのことについては、彼女ら/彼らの徹底ぶりに、あたしもびっくりしました。

争議を起こす当事者をなぜそこまで主役にするのかという理由が田中さんの口から出た時、それがあまりにも具体的であり、しかも、経験に裏付けされている確信のようなものをあたしは感じて、今まで漠然と感じていたことの細部がくっきりと描かれて、一枚のビジョンが色鮮やかになったような気分になりました。

社会参画の経路を既に奪われているセックスワーカーや水商売で働く人の社会参画の経路を回復しなければならない。社会参画の経路とは、法律を知ること、無条件に自分自身であることができること、誰かにアピール出来ること、そして何より、名乗り出たい時に名乗り出ることのできることである。現在、セックスワーカーや水商売で働く人は、それらが奪われている。まずは、労働争議を通じて当面の生活費を確保することも含めた、それらを回復するこを正義を規定する手前の段階として確立した上で、社会参画の経路が確保されてから正義を問い直すプロセスを始めることが可能ではないのか、、、

なんて、漠然とあたしの頭の中ではしていたのです。抽象的にはいくらでも言えるのですか、どうも具体性というか、どこにどの色が塗られているのか、どこの蝶番は何センチなのか、それが全くぼんやりしていたのです。ところが田中さんの話は明確でした。あたしの適当な概説をすれば、こんな感じです。

キャバクラで働く人は彼女たちなりの流動性と機動性を持っている。合わないと思えばすぐ辞める軽快さを持った人が多いし、様々な店を渡り歩く人もいる。キャバクラで労働問題が起こった時、その度ごとに当事者と一緒に解決していけば、その当事者が次に同じようなケースに遭遇してしまった時、自分で解決できるノウハウを既に持っていることになる。その結果、彼女たちが自分で自分の問題を解決できるようになる。自分の問題の解決の仕方を自分で理解できるようになれば、(たとえ、それが労働組合を通じての解決を模索しなかったとしても)彼女たちはそのノウハウを次の店で、次の友人たちと共有してくれるかもしれない。そうやって行くうちに、キャバクラで働く人が自己解決できるだけの資源が溜まっていけば、悪徳な店には騙されにくくなるし、悪徳な店も争議コストを抱えて立ち行かなくなるだろう。結果として業界全体が改善される道がうまれるはずだ。だから、一つ一つの未払い賃金の回収が沢山のキャバクラで働く人の状況を良くすることに繋がっている。

と、まあ、だいたいこんなことだったと思います。

漠然と思っているうちは、そのことを全然把握できていないってことを思い知りました。抽象的にどうとでも言ってしまえるうちは、実は全くそのことについて認識できていないのです。事実は具体的なことの積み重ねにある。
多くのマイスターが示すように、細部を知ることは経験を積み重ねることなのでしょう。地味な作業を繰り返し、同じ問題に何度も向き合えばこそ、人は細部を知り、そこに神すらも見出すのかもしれません。

キャバクラ業界改善という壮大な作品のために、これからもユニオンぼちぼちは地道な作業を繰り返していきたいと思うのです。

お茶汲み係

冷たい雨の日と会議の日が重なってしまった、そんな昨日でした。

ユニオンぼちぼちでは会議を始める時、まず最初に役割を決めることにしています。例えば、会議の進行役とか議事録を取る人とか、まあそんな色々をなるべく誰か固定の人の負担にならないように会議ごとに割り振るようにしているのです。その中でひときわ輝きを放つ芳しい役回りあります。それが「お茶」。そう、コピー取りと双璧をなすOLの労働の代名詞、お茶汲みです。

 

ユニオンぼちぼちではお茶汲みを平等に男性にもやってもらうんだぞ!えっへん!

なんて自慢をしたいのではないのです。そんなことは当たり前のことですから。そんなことは正しすぎるくらい正しいことですから。

 

僕たちはフェミニズムについて知っているんだ!だから、お茶汲みがジェンダー化された仕事だということも自覚しているし、お茶汲みはその他の仕事よりも価値が低いとされてきたことも知っているんだ。だから、女性がお茶を淹れる技術をどれだけ積み上げて卓越しても彼女の地位が上がらなかったのも十分に反省しているし、自分たちがそんな不正義を再生産しないためにお茶汲みを男性も女性もやるようにしているんだ!それ以外にも、クリスチャンディオールの”we should be feminist”ってプリントされたTシャツをもちろんきているし、川久保玲のジェンダーセンシティブなデザインについても評価しているよ。それにミスコンは女性差別的だと思っているし、森鴎外の『舞姫』を日本文学の正典に入れるこもには反対しているんだ。だって、ほとんどの文学は女性をまるでモノみたいに扱っているじゃない。僕たちは信じているんだ。「男も女もフェミニストでなきゃね」ってね!

なんて、誰にとっても疑いようもない正しさを、したり顔でネチネチと講釈を垂れてくる人間を想像してみて下さい。心の中であなたはその聖人を見つめてこう思うことでしょう。確かに正しゅうございますよと。安堵と辟易した気持ちをないまぜにしながら、その人間がどんな後ろ暗い家父長的な歴史からやってきたのかあなたが不安になるのも必定というものです。

何に対する不安かって?もちろん、あたしたちの歴史における家父長制の盤石さに対するそれにでしょうけど。

前置きを長々とお話ししてしまいましたが、だからそんな正しい以外に何も生み出さないようなことは、何も言わずに当たり前に分担しているのです。

 

昨日のお茶は緑茶と烏龍茶でした。

お茶というのはとても繊細な飲み物のようで、お湯の温度や抽出時間を変えるだけでガラッと味が変わるようです。同じ茶葉でも淹れる人が変われば野太い強い香りのお茶にもなり、柔らかい香りのお茶にもなるようです。それぞれの違った資質が別の人の生活を支えるために支払われ、それらが相互的に交換される。お茶汲みを違った人が持ち回るだけでも、それぞれの微妙な感性や資質の違いを共有化することができるように思います。

時に甘く、時に苦く、時に水っぽくて、時に強すぎるような、そんな過剰とも過少とも思えるそれぞれの偶発的な能力を会議ごとに交換できるのは、あたしには幸せに思える出来事であるのです。

ずっと出せなかった手紙

人魚姫さま

すっかりご無沙汰している間に随分寒くなってしまいました。こちらの海はハマヒルガオが茶色く枯れあがって、その先のコーラ色をした海と区別がつかないくらい、あたり一面が真っ茶色です。うら寂しいこんな季節でも近くのショッピングモールにはクリスマスが来るようで、その一帯だけ電飾の光がザワザワと打ち寄せては引いて、輝きをおびた夏の波打ち際のようにも見えます。
そちらの海にもクリスマスはやって来ていますか?そしてあなたはお元気でしょうか?あなたの海とあなたのお宅に素晴らしい来年が来ることを願っています。

と、挨拶はこれくらいにさせて下さい。少し混乱しているの。つまり、あなただったらどう考えるか教えてほしいっていうか、そういうのですらなくて、ただ考えがまとまらないことに焦っているだけかも。こういう時には、何て言えばいいのか分からなくて、どう考えればいいか戸惑ってしまっていて。

「笑えばいいと思うよ」なんて碇シンジ君の台詞の引用を返すのは、今日のところはやめてほしいかも。できれば。なぜなら、笑えないから。でも、あなたの言葉で笑いたいって本心もあるけれど。とにかく、教えてほしいの。あなたの言葉で。

大宮の繁華街にあるソープランドで火事があったニュースを知ってる?ニュースを知らないのならヤフーのニュースサイトでも見てみて。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171218-00000046-sph-soci

に書いてあるはず。

こちらのテレビではそのニュースが流れていて、ネットでも騒がれてるみたい。ニュースによると火事で何人か亡くなったみたい。出火原因はまだ分かんないんだって。ソープランドを新しく建て替える時に要求される風営法が厳しすぎて、建物が老朽化しているのに建て替えが遅れたのが被害を拡大させたんじゃないかとか、都市計画の段階で避難経路が狭すぎるんじゃないかとか色々言われていて、まあ起こったことは火事だから、被害が大きくなったり火が出ることの原因って物理的な問題か法律的な問題以外にはありえないのだし、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そう考えるべきだとあたしも思っているのだけれど、どうもシンプルに考えるのが難しくてね。

衝撃的な事件が起きるとその事件で亡くなった人を追悼することがあるけど、そのシーンを見るたびに現実がデロっとめくれるっていうか、現実の世界に裂け目ができて、その裂け目の前でただ立ち尽くすような感覚にならない?ものすごく居心地が悪いけれど、どうしても裂け目の前から立ち去ることができないような感覚に。

次は誰が死ぬと思う?
次死んだ人は追悼されるかな?
でも、次って誰の次で、誰の死は次じゃない死なの?
以前死んだ人って誰で、これから死ぬ人って誰?
誰が死んだ時は次じゃないの?
誰が死んでも次に死ぬ人なの?

これまでもこれからも人は死に続けているけれど、誰もそんな当たり前のことを馬鹿正直に受け止めて、毎日葬式に参列している人なんていないのに。でも、どこかで特定の死者を悼むことがあるし、でも、誰かの死が自分の死を予告されるような気分にもなって、それを感じたら世界がばっくり割れた隙間から、現実が見える気がするの。すごく胸糞の悪い現実が。

形式的にはわかってるはず。概念としては整理できてるの。多分こんな感じ。

人が全ての死者を悼めないという前提から、悼まれる死者と悼まれない死者が存在するのことは、生きるべき価値のあるとみなされる生と生きることが最初からカウントされない生の価値判断を反映している。したがって、人が悼まれる際、悼むという行為の中に既に社会的な価値付けが行われる。人間の死が悼まれる際、次のような場合があるだろう。悼まれる生は立派に死ぬこともあれば、生きるべきではない生が死ぬべくして死ぬこともある。言い換えれば、死んだことを惜しまれつつ悼まれる認め難い死もあれば、悼まれつつ死が歓迎される場合もある。つまり、悼たまれながら死すべき存在の死すべき運命が語られることもあることから、悼まれる生の価値付けが常に肯定的で、悼まれない生が常に否定的な意味として再生産される訳ではない。例えば、独裁者の葬儀は祝祭に、愛国者の殉死についての追悼は身代わりの感謝に、死を悼む行為を行う側の欲望を部分的には翻訳できるかもしれない。
では、死が悼まれない場合はどうだろうか。標準的な生はせいぜい家族・親族の間でしか悼まれない。彼らの死は社会的な意味を持たず、ヒトという種の中の個体の増減や生命のサイクルとしてしかカウントされない。彼らの生きた時間という実存は人類の物語の中で埋葬され、彼らの個別性は永遠に顧みられることはない。悼まれる生が物語に組み込まれ、意味の世界に置かれるのとは対照的に、悼まれない生は物語の要素にすらならず、ただ忘れられていく。
繰り返しになるが、生が悼まれるのは英雄的であろうと悪魔的であろうと物語化される生だけである。したがって、規範から逸脱した存在の衝撃的な生の終焉という悲劇は時として社会的に悼まれる。例えば、ヘイトクライムの被害者は時として悼まれるが、これらはもう二度と同じような種類の人が死んでほしくないという意味でも悼まれるし、そのような種類の人だから死ぬのだという意味でも悼まれる。たとえ善良な人がヘイトクライムの被害者を前者の意図を込めて追悼したとしても、その追悼は死者の死の意味や死者が死ぬことになった必然性を明確にしてしまう。彼は〇〇人だから死ぬことになったのだ、彼女は〇〇をやっていたから死んだのだと。そして、追悼というその行為が表象してしまうアイデンティティと死の必然性の関連は、そのアイデンティティと同一化する人に次の死の予告を与えてしまいもする。
死を悼まなければ死者の実存が回復できず、死を悼めば死者の死の必然性が現れてしまう時、一体、人は誰としてどのように死者を追悼することが可能であるのか?死者のアイデンティティを超えて追悼することは可能か?死者と自分のアイデンティティを語ることなく、死者の死の必然性と彼らのアイデンティティとの関連も、死とアイデンティティの関連と自分の生との繋がりをも語ることなく、誰かの死を追悼することは可能か?誰かのスティグマを強化することなしに、誰かの死を追悼することは可能か?

ざっくり言ってこういうことは、もう分かっているし、形式的には整理がつくのだし、だから、抽象的で思弁的なことをなるべく省略して、スマートに考えた方がいいのは分かってる。建物の構造とか都市計画とか建築するための法律とか、そういうことだけを考える方が健全だと分かってる。単に安全を求めることを望んだ方がいいのも分かってる。どんなところの事故も少ないに越したことはないし、その実現が、もしかしたらその実現だけが、そこで働く人にとってもお客にとっても合理的なこともうんざりするほど分かってる。十分すぎるくらいに分かってるつもりだけど、沈黙することに耐えれなくて、こうやってあなたに聞いてるの。聞いてるっていうより言ってるけどね。

「地球誕生以来活動してきた沢山の生物の死骸の上にあなたの既に立っているのよ」なんて、あなたに言われた気がするけど、仮にそうだとしても、もう二度とその全てが起こって欲しくないなんて願うことは愚かなのかな?あなたのように沈黙のうちに耐えるだけの力が欲しい。あなたのように語ることなく、語られながら生き抜けるだけの枠組みが欲しい。

うーん。多分全部違う。全部なし。この手紙、やっぱりなかったことにして。読まなかったことにしておいて。

じゃあね
また電話する
よいお年を

ヒナコ

団体交渉から言葉が始まるとすれば

はじめまして。ユニオンぼちぼちのポストモダンとフルートとひょっとこ担当のヒナコです。主にひょっとこを担当しておりますので、ひょっとこ関連のことを、これから書かせていただこうと思っています。

(嘘です。)

働いていると—日常生活を送っているだけでも、しばしば、誰かからの心ない発言に傷つけられることがありますよね。
あたしはひょっとこでありトランスジェンダーなので(後者が嘘で前者が本当のアイデンティティです)、

(嘘です。)

働いて何回かトランスフォビア/ホモフォビアを直接発せられることを経験させられたことがあります。例えば、同僚の若い男性が一言も雑談してくれないなあと思っていたら、別の同僚から「あいつ、お前に襲われるかもしれないって言ってたけど、お前なんかやったの?」と彼があたしを避ける理由をそれとなく教えられたことがあります。同性愛者は常に性的対象の身体に対する侵害を狙っている—男性同性愛者から男性の異性愛者は肛門を守らなければならない!なんともがっかりするような、3流コント番組のワンシーンのようなおきまりの恐怖感を彼は再演した訳です。

(嘘であればよいのだけれど…)

彼の恐怖にどう向き合うべきか、もしくは向き合わないべきかはさておき、あたしはこのように言えば、もしかするとそれほど傷つかなかったのかもしれません。

「お尻の操を心配しているようやけど、そもそもあたし、レズビアンやから、君に関心あんまりないんよね。それに、あたし、どちらかといえばネコやし、っていうより、マゾやし、つまり君の粘膜とあたしの生殖器が結合する必然性って、一年以内に巨大隕石が地球に衝突する確率より低いと思うんよねぇ。だから、そんな心配をするくらいなら、望遠鏡を君の直腸までぶち込んで、今日も隕石が我らが水の惑星に襲いかかってこないようにお祈りししている方がいいと思うの。」

(8割は嘘です。)

なんてセリフを、それこそ喜劇役者のおどけた身振りをつけて。

エスパー以外の人間は、自分に降りかかる言葉がなんであるか、言葉を贈られる前に把握することはできません。だから、言葉は時に、予想もしない—あるいは、予想通りの—凄惨な贈り物になります。自宅にウンコ入りのタッパーが贈られてくるかもしれない危険から、誰もが自由ではありません。

(本当にならない方がいいのだけれど…)

しかしながら、どれほど贈られる言葉が有害であろうと、言葉が人を傷つけるのは、言葉が時に有害大腸菌の塊にも、ミストレスからのご褒美にもなるという言葉の性質のせいではないかも知れません。贈られた言葉を贈り返せないことが、言葉を返すことが禁止されている場合が、言葉を言い返す機会が失われていることが、自分を弁解する審級がどこにも存在しないことが、人を絶望に陥れるような気がします。

鈴木雅之だって「違う違う、そうじゃそうじゃない」って言えるのに、あなたが働いてる時にそう言えるのは仕事終わりの懇親会の席でカラオケボックスで鈴木雅之を歌う時しかないとしたら、ヒットチャートは鈴木雅之が独占するんじゃない?
だから、ユニオンぼちぼちの団体交渉では必ず鈴木雅之の曲の合唱をするようにしているの。

(嘘です。)

どれだけ言葉が残虐でも、人類は惑星探査機ボイジャーに宇宙人宛のメッセージを積み込んでまで、まだ見ぬ誰かに語りかけたように、誰かかの返答をどうしても望んでしまうのが人類の性なのだから、誰かから言われた言葉をその誰かに返すことだって、そんなに悪くないのかも。どんな人だって贈り物を返してもらうために贈り物をしているのだろうし。
直腸を探検した人口探査機がいつか巡り巡って子宮に着床するはずがないって誰が決めたの?最初は不幸な贈り物の連鎖からしか始まらないとしても、言葉はいつか宇宙人にも届くのかも。

このブログを通じて、あなたが「違う違う、そうじゃそうじゃないない」と言ってくれるとすれば、ウンコの詰まったタッパーがどんな黄金よりも人間らしい贈り物になるかもしれないでしょ!

(これだけは本当です。)