大きな地震に続いて、大雨がやってきました。
どちらの出来事も、今もなお多くの人を苦しめ続けているようで、安全な室内で番茶をすすりながら、こうしてキーボードを叩いていることすら、なんだか申し訳なく思うと同時に、そうやって申し訳なく思うことすらも、あたしの置かれた場所からの言葉でしかないという残念な認識を恥ずかしくも思っている、夕下がりのひと時です。
先日の大雨の際、あたしの住んでいる昭和39年の建てられた木造の文化住宅の室内は、連日湿度が80パーセントを悠に超えていて、四国や九州の大雨情報をチェックしている時にも、こうして湿りきった建物が地震の時に倒壊しないのだろうかと不安な日々を過ごしました。部屋に干した洗濯物がおじさんの使った後のまくらのような臭いを放ち、いつまで食器拭きでふいても乾燥しないまな板からよからぬ菌が増殖しているような気さえして、なんども漂白を繰り返したりもしました。
密閉率の高いコンクリートのマンションに住んでいる人にはわからないだろう外気の侵入を、文化住宅に住んでいると味わいます。雨の日はジメジメし、外を車が通れば部屋が揺れます。下校途中の子供たちがリコーダーを使って奏でる旋律を聞くこともできますし、近くで起こる誰かの喧嘩の理由もだいたいわかります。この部屋はとにかく浸透するのです。湿度や気温だけでなく、喜びも不安も悲しみも、そういった生のもの全てが。
不安という感情は原因のわからないものなのかもしれません。不安とは原因が分かれば不安ではなくなってしますものなのかもしれません。ですから、あたしが大雨の時にこの部屋で感じた不安の原因など、あたしにははっきりわかりません。
あたしの不安を誰かが聞き入れる時、あたしの不安の原因そのものについてはどうにもできないように、あたしも誰かの不安の原因そのものについてはどうにもできません。ただ、テレビモニターやスマートフォンの液晶に投影された人の形や文字列が不安そうにしている様子をあたしは確認しているだけなのでしょう。原因のわからない不安がネットワークを通じて伝染していくのを、ただただあたしは見ているだけでした。
もし仮に、テレビやインターネットの情報ネットワークがなかったら、あたしは誰かの不安を受け取ることができませんでした。もし仮に、この部屋さえなかったら、あたしは外気と部屋の区別さえつけることができずに、文化住宅の倒壊を恐れすことさえもできなかったのかもしれません。不安が人間の声帯や指や眼球など具体的な身体を通じて表明されなければ、その人が抱えるそれは、どこにも共鳴することなく、その人の中で響き続けることでしょう。不安を感じる人が不安を表明するデバイスを必要とするように、不安を受け取る人もまた、それらが共鳴する場所を必要としているのかもしれません。
あたしたちに病み得る身体がなければ、誰かの身体の不調を気遣えないように、あたしたちのあらゆる物理的脆弱さは、誰かの脆弱さを受け入れる潜在的な条件を形成しているのだろうとあたしは思っています。
人間の身体に逃れがたくある脆弱さを、貧困な生に逃れがたく存在する不安定さを、誰たのために使うことは可能でしょうか?そして、その物理的な逃れがたさを契機にして、物理的な安全性の向上も含めた変革を企図することは可能でしょうか?そして、その企図が実現して人の心配が過ぎ去っていくことを喜ぶことは可能でしょうか?
この部屋には外気とともにあなたの言葉も浸透してきています。この部屋にはあなたの脆弱さが共鳴しています。あなたが発するあなたの脆弱さの響きを始まりとして、それでもこうして細やかな変革は起こっています。
だから、あたしは、あなたの脆弱さが反響するためのこの不満足な言葉が充満する場所に、これからもあなたが立ち寄り、時には、逃げていくことを望んでいるのです。