月別アーカイブ: 2017年12月

ずっと出せなかった手紙

人魚姫さま

すっかりご無沙汰している間に随分寒くなってしまいました。こちらの海はハマヒルガオが茶色く枯れあがって、その先のコーラ色をした海と区別がつかないくらい、あたり一面が真っ茶色です。うら寂しいこんな季節でも近くのショッピングモールにはクリスマスが来るようで、その一帯だけ電飾の光がザワザワと打ち寄せては引いて、輝きをおびた夏の波打ち際のようにも見えます。
そちらの海にもクリスマスはやって来ていますか?そしてあなたはお元気でしょうか?あなたの海とあなたのお宅に素晴らしい来年が来ることを願っています。

と、挨拶はこれくらいにさせて下さい。少し混乱しているの。つまり、あなただったらどう考えるか教えてほしいっていうか、そういうのですらなくて、ただ考えがまとまらないことに焦っているだけかも。こういう時には、何て言えばいいのか分からなくて、どう考えればいいか戸惑ってしまっていて。

「笑えばいいと思うよ」なんて碇シンジ君の台詞の引用を返すのは、今日のところはやめてほしいかも。できれば。なぜなら、笑えないから。でも、あなたの言葉で笑いたいって本心もあるけれど。とにかく、教えてほしいの。あなたの言葉で。

大宮の繁華街にあるソープランドで火事があったニュースを知ってる?ニュースを知らないのならヤフーのニュースサイトでも見てみて。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171218-00000046-sph-soci

に書いてあるはず。

こちらのテレビではそのニュースが流れていて、ネットでも騒がれてるみたい。ニュースによると火事で何人か亡くなったみたい。出火原因はまだ分かんないんだって。ソープランドを新しく建て替える時に要求される風営法が厳しすぎて、建物が老朽化しているのに建て替えが遅れたのが被害を拡大させたんじゃないかとか、都市計画の段階で避難経路が狭すぎるんじゃないかとか色々言われていて、まあ起こったことは火事だから、被害が大きくなったり火が出ることの原因って物理的な問題か法律的な問題以外にはありえないのだし、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そう考えるべきだとあたしも思っているのだけれど、どうもシンプルに考えるのが難しくてね。

衝撃的な事件が起きるとその事件で亡くなった人を追悼することがあるけど、そのシーンを見るたびに現実がデロっとめくれるっていうか、現実の世界に裂け目ができて、その裂け目の前でただ立ち尽くすような感覚にならない?ものすごく居心地が悪いけれど、どうしても裂け目の前から立ち去ることができないような感覚に。

次は誰が死ぬと思う?
次死んだ人は追悼されるかな?
でも、次って誰の次で、誰の死は次じゃない死なの?
以前死んだ人って誰で、これから死ぬ人って誰?
誰が死んだ時は次じゃないの?
誰が死んでも次に死ぬ人なの?

これまでもこれからも人は死に続けているけれど、誰もそんな当たり前のことを馬鹿正直に受け止めて、毎日葬式に参列している人なんていないのに。でも、どこかで特定の死者を悼むことがあるし、でも、誰かの死が自分の死を予告されるような気分にもなって、それを感じたら世界がばっくり割れた隙間から、現実が見える気がするの。すごく胸糞の悪い現実が。

形式的にはわかってるはず。概念としては整理できてるの。多分こんな感じ。

人が全ての死者を悼めないという前提から、悼まれる死者と悼まれない死者が存在するのことは、生きるべき価値のあるとみなされる生と生きることが最初からカウントされない生の価値判断を反映している。したがって、人が悼まれる際、悼むという行為の中に既に社会的な価値付けが行われる。人間の死が悼まれる際、次のような場合があるだろう。悼まれる生は立派に死ぬこともあれば、生きるべきではない生が死ぬべくして死ぬこともある。言い換えれば、死んだことを惜しまれつつ悼まれる認め難い死もあれば、悼まれつつ死が歓迎される場合もある。つまり、悼たまれながら死すべき存在の死すべき運命が語られることもあることから、悼まれる生の価値付けが常に肯定的で、悼まれない生が常に否定的な意味として再生産される訳ではない。例えば、独裁者の葬儀は祝祭に、愛国者の殉死についての追悼は身代わりの感謝に、死を悼む行為を行う側の欲望を部分的には翻訳できるかもしれない。
では、死が悼まれない場合はどうだろうか。標準的な生はせいぜい家族・親族の間でしか悼まれない。彼らの死は社会的な意味を持たず、ヒトという種の中の個体の増減や生命のサイクルとしてしかカウントされない。彼らの生きた時間という実存は人類の物語の中で埋葬され、彼らの個別性は永遠に顧みられることはない。悼まれる生が物語に組み込まれ、意味の世界に置かれるのとは対照的に、悼まれない生は物語の要素にすらならず、ただ忘れられていく。
繰り返しになるが、生が悼まれるのは英雄的であろうと悪魔的であろうと物語化される生だけである。したがって、規範から逸脱した存在の衝撃的な生の終焉という悲劇は時として社会的に悼まれる。例えば、ヘイトクライムの被害者は時として悼まれるが、これらはもう二度と同じような種類の人が死んでほしくないという意味でも悼まれるし、そのような種類の人だから死ぬのだという意味でも悼まれる。たとえ善良な人がヘイトクライムの被害者を前者の意図を込めて追悼したとしても、その追悼は死者の死の意味や死者が死ぬことになった必然性を明確にしてしまう。彼は〇〇人だから死ぬことになったのだ、彼女は〇〇をやっていたから死んだのだと。そして、追悼というその行為が表象してしまうアイデンティティと死の必然性の関連は、そのアイデンティティと同一化する人に次の死の予告を与えてしまいもする。
死を悼まなければ死者の実存が回復できず、死を悼めば死者の死の必然性が現れてしまう時、一体、人は誰としてどのように死者を追悼することが可能であるのか?死者のアイデンティティを超えて追悼することは可能か?死者と自分のアイデンティティを語ることなく、死者の死の必然性と彼らのアイデンティティとの関連も、死とアイデンティティの関連と自分の生との繋がりをも語ることなく、誰かの死を追悼することは可能か?誰かのスティグマを強化することなしに、誰かの死を追悼することは可能か?

ざっくり言ってこういうことは、もう分かっているし、形式的には整理がつくのだし、だから、抽象的で思弁的なことをなるべく省略して、スマートに考えた方がいいのは分かってる。建物の構造とか都市計画とか建築するための法律とか、そういうことだけを考える方が健全だと分かってる。単に安全を求めることを望んだ方がいいのも分かってる。どんなところの事故も少ないに越したことはないし、その実現が、もしかしたらその実現だけが、そこで働く人にとってもお客にとっても合理的なこともうんざりするほど分かってる。十分すぎるくらいに分かってるつもりだけど、沈黙することに耐えれなくて、こうやってあなたに聞いてるの。聞いてるっていうより言ってるけどね。

「地球誕生以来活動してきた沢山の生物の死骸の上にあなたの既に立っているのよ」なんて、あなたに言われた気がするけど、仮にそうだとしても、もう二度とその全てが起こって欲しくないなんて願うことは愚かなのかな?あなたのように沈黙のうちに耐えるだけの力が欲しい。あなたのように語ることなく、語られながら生き抜けるだけの枠組みが欲しい。

うーん。多分全部違う。全部なし。この手紙、やっぱりなかったことにして。読まなかったことにしておいて。

じゃあね
また電話する
よいお年を

ヒナコ

スタッフAの長い一日

スタッフAです。私の長い一日を紹介させてください。

 

早朝の5時くらいに目が覚めたので、これ幸いと機関紙を発送するための住所ラベルと振込用紙をセッティング。それが一段落した8時頃に朝食を取り、争議案件の打ち合わせのために京都事務所へ。

 

2時間ほど打ち合わせをして、事務所に来ていた郵便物を確認し、担当者に連絡。それから来年2月に予定している学習会の場所を予約。

 

そしてせっかく平日の昼間に街中へ出たのだからと買物をして帰って、洗濯をしたりしながら、事務所から回収してきた郵便物をスキャンして電子化して担当者にメール完了。

 

早起きのせいで眠く妙なテンションでこのブログを書いています。

 

あとは争議案件の関係で弁護士にメールで報告をして今日のユニオンぼちぼち関係の仕事は終わりの予定です。

 

今日はユニオンぼちぼち関係の仕事をたくさんしたのでアピールでした。もちろん今日が例外的な日で何もない日もあります。

 

こうした雑務を分担してあげるよという奇特な方がいらっしゃいましたらぜひご連絡ください。必要な仕事をしているという充実感はあります。

 

生活保護費大幅削減の撤回と社会保障・労働行政施策の拡充を求める声明

【生活保護費大幅削減の撤回と、
社会保障・労働行政施策の拡充を求める声明】

 厚生労働省は第35回生活保護基準部会(12月8日)において、生活扶助基準本体や母子加算を大幅に削減する方針を示しました。私たちユニオンぼちぼち(関西非正規等労働組合)は、厚労省の示した生活扶助基準本体などの大幅削減の撤回を求めるとともに、社会保障・労働行政施策の拡充を求めます。

私たちは、これまで多くの団体交渉や労働争議を経験してきました。私たちの組合員には、正規/非正規労働を問わずして、長時間労働やパワハラ・セクハラ、賃金未払いなどの経験から、その後も「働くことができない」状況にある組合員が多くいます。「団体交渉の場にいくのも怖い」、「職場に行くと責められ続けるように思ってしまう」と追いつめられ、社会全体の労働環境の悪化を、目の前の組合員個人が映し出す傾向が続いています。

想像してほしいのは、働くなかで心身をボロボロにされ、経済的に困窮しているなかで、「具体的に使えるものはなにか」ということです。例えば、労働争議で解決を経たあとも不安定な環境は続くかもしれない。あるいは、雇用保険などの社会保険制度にアクセスできない/使い果たしてしまったかもしれない。親族や友人に頼れる人はいないかもしれない。貯金はもう尽きてしまうのかもしれない…。そのなかで、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障してきたのは、他ならぬ生活保護制度です。

俗にいわれるような、生活保護利用者が「働いていない」というのは誤った認識です。実際には、心身の調子が悪いながらも、仕事をしようと、続けようと苦しんでいる人がいます。しかし、賃金が低いために、生活に必要な最低限の収入を得られず、差額分を生活保護から得ているのです。あるいは、生活保護バッシングによって、「生活保護なんか受けたくない」という心境に苦しみながら生活保護を利用せざるをえない/利用に戸惑う人もいます。厚労省の生活保護制度に対する姿勢は、生活保護バッシングに加担するもので、昨今叫ばれている貧困問題へのアプローチに逆行しています。

現に生活保護が必要であるにもかかわらず、生活保護の利用をひかえている人たちが多くいます。厚労省の推計では、所得が生活保護の基準に満たない世帯は705万に上るともいわれています。例えば、昨今は「子どもの貧困」が社会問題として各界や現場から叫ばれ、2014年には「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が施行されました。しかし、ユニセフ事務局長は「日本のおよそ16%の子どもが深刻な貧困状態にある。SDGsの下で、とりわけ豊かな社会において子どもが飢えや格差に苦しむことがあってはならない」と懸念を表明しています。貧困問題に対して、私たちの労組を含めた、地域の様々な団体やNPOが現場で闘っています。しかし、貧困の連鎖・拡大という蛇口の元栓を閉めるどころか、さらに開けているのは政府の対応のせいではないでしょうか。

政府はいま、自らが音頭を取って「一億総活躍社会」を謳っています。「一億総活躍社会」は、「一人ひとりが、個性と多様性を尊重され、家庭で、地域で、職場で、それぞれの希望がかない、それぞれの能力を発揮でき、それぞれが生きがいを感じることができる社会」を標榜しています。この音頭の是非はおいて、「一億総活躍」には「健康で文化的な最低限度の生活」が送れていることが前提ではないかと考えます。しかし、生活保護費は不合理な引き下げが続いており、生活保護利用者はこれまでつちかってきた人間関係を維持することもままなりません。長時間労働などで苦しんだ結果として、働けなくなった人たちが、生活保護が削られることで、友人や地域との関係も奪われ、部屋の中で、孤独に追い込まれています。

アベノミクスによって経済は「好景気」にあるといわれ、所得格差は毎年のように拡大し、企業の内部留保は過去最高を記録しています。政府の所得再分配機能は「高所得者層から低所得者層に再分配する」ものではなく、「低所得者層から搾り取って、高所得者層に再分配する」ようなものでしょう。今回の生活扶助本体などの引き下げは、「低所得者層の収入を考慮したもの」とされていますが、政府自らが生活保護利用者と低所得者を分断して、「不幸比べ」を率先しているようです。生活保護基準は最低賃金・税制・医療・地域福祉と連動していますから、生活保護基準を引き下げることは、低所得者層全体を下へ下へと追い込むものでしかありません。また、主観的にみれば、リスク社会化した現代であるからこそ、誰もが所得に関係なく生活保護の利用が射程となっています。度重なる「生活保護基準の引き下げ」は「生存権の引き下げ」に他なりません。

生活保護利用者と低所得者が混在する私たちからいわせれば、誰もが人間として生きられるように、「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるように、社会保障・労働行政施策を拡充するべきなのです。

団体交渉から言葉が始まるとすれば

はじめまして。ユニオンぼちぼちのポストモダンとフルートとひょっとこ担当のヒナコです。主にひょっとこを担当しておりますので、ひょっとこ関連のことを、これから書かせていただこうと思っています。

(嘘です。)

働いていると—日常生活を送っているだけでも、しばしば、誰かからの心ない発言に傷つけられることがありますよね。
あたしはひょっとこでありトランスジェンダーなので(後者が嘘で前者が本当のアイデンティティです)、

(嘘です。)

働いて何回かトランスフォビア/ホモフォビアを直接発せられることを経験させられたことがあります。例えば、同僚の若い男性が一言も雑談してくれないなあと思っていたら、別の同僚から「あいつ、お前に襲われるかもしれないって言ってたけど、お前なんかやったの?」と彼があたしを避ける理由をそれとなく教えられたことがあります。同性愛者は常に性的対象の身体に対する侵害を狙っている—男性同性愛者から男性の異性愛者は肛門を守らなければならない!なんともがっかりするような、3流コント番組のワンシーンのようなおきまりの恐怖感を彼は再演した訳です。

(嘘であればよいのだけれど…)

彼の恐怖にどう向き合うべきか、もしくは向き合わないべきかはさておき、あたしはこのように言えば、もしかするとそれほど傷つかなかったのかもしれません。

「お尻の操を心配しているようやけど、そもそもあたし、レズビアンやから、君に関心あんまりないんよね。それに、あたし、どちらかといえばネコやし、っていうより、マゾやし、つまり君の粘膜とあたしの生殖器が結合する必然性って、一年以内に巨大隕石が地球に衝突する確率より低いと思うんよねぇ。だから、そんな心配をするくらいなら、望遠鏡を君の直腸までぶち込んで、今日も隕石が我らが水の惑星に襲いかかってこないようにお祈りししている方がいいと思うの。」

(8割は嘘です。)

なんてセリフを、それこそ喜劇役者のおどけた身振りをつけて。

エスパー以外の人間は、自分に降りかかる言葉がなんであるか、言葉を贈られる前に把握することはできません。だから、言葉は時に、予想もしない—あるいは、予想通りの—凄惨な贈り物になります。自宅にウンコ入りのタッパーが贈られてくるかもしれない危険から、誰もが自由ではありません。

(本当にならない方がいいのだけれど…)

しかしながら、どれほど贈られる言葉が有害であろうと、言葉が人を傷つけるのは、言葉が時に有害大腸菌の塊にも、ミストレスからのご褒美にもなるという言葉の性質のせいではないかも知れません。贈られた言葉を贈り返せないことが、言葉を返すことが禁止されている場合が、言葉を言い返す機会が失われていることが、自分を弁解する審級がどこにも存在しないことが、人を絶望に陥れるような気がします。

鈴木雅之だって「違う違う、そうじゃそうじゃない」って言えるのに、あなたが働いてる時にそう言えるのは仕事終わりの懇親会の席でカラオケボックスで鈴木雅之を歌う時しかないとしたら、ヒットチャートは鈴木雅之が独占するんじゃない?
だから、ユニオンぼちぼちの団体交渉では必ず鈴木雅之の曲の合唱をするようにしているの。

(嘘です。)

どれだけ言葉が残虐でも、人類は惑星探査機ボイジャーに宇宙人宛のメッセージを積み込んでまで、まだ見ぬ誰かに語りかけたように、誰かかの返答をどうしても望んでしまうのが人類の性なのだから、誰かから言われた言葉をその誰かに返すことだって、そんなに悪くないのかも。どんな人だって贈り物を返してもらうために贈り物をしているのだろうし。
直腸を探検した人口探査機がいつか巡り巡って子宮に着床するはずがないって誰が決めたの?最初は不幸な贈り物の連鎖からしか始まらないとしても、言葉はいつか宇宙人にも届くのかも。

このブログを通じて、あなたが「違う違う、そうじゃそうじゃないない」と言ってくれるとすれば、ウンコの詰まったタッパーがどんな黄金よりも人間らしい贈り物になるかもしれないでしょ!

(これだけは本当です。)

THE MANZAI 2017のウーマンラッシュアワー

スタッフAです。

 

THE MANZAI 2017のウーマンラッシュアワーが話題のようです。例えば以下の記事などです。

ウーマンラッシュアワーが『THE MANZAI』で怒涛の政治批判連発! 原発、沖縄基地問題、コメンテーター芸人への皮肉も |LITERA/リテラ

 

その映像を見てすごいなと私も思いました。

 

主張内容が正しいとか間違っているとかではなく、言いづらいはずのことを堂々と言っていることがすごいと思ったのです。放送しづらいはずのことを放送したテレビ局もすごいですね。

 

繰り返しになりますが、内容がどうこうという話ではなく、言いづらいはずのことを漫才という形に仕上げて表現したことに感動しました。

 

例えば、数十年前には性的な事柄を口に出すのが憚られていた状態で、性的なことを堂々と主張していたらすごいと感じるのと同じです。今ではむしろ性的な事柄はウェルカムだという雰囲気もあるので、その空気に流されてよく考えもせずに性的な事柄を主張するのはすごくないです。

 

同様に、今後仮に政権批判や政治的な主張をするのが流行したとして、ただ単にその流行に乗るということはすごくないです。

 

労働組合関係の世界では、政権批判やいわゆる左翼的な言説が当然とされることが多いので、それを当然とせず自分で考えておかしいと思ったことはおかしいと言えるようにしたいと個人的に思っております。

 

 

賃金請求権の時効

事務担当のスタッフAです。

 

未払賃金の計算をすることがよくあります。場合によっては5年や10年分の未払賃金が発生していることもありますが、基本的に賃金請求権の消滅時効は2年なので、過去2年分しか得られません。

 

ただし、民法上の不法行為だと構成できれば消滅時効が3年になります。また、会社側が時効を援用しなければ5年でも10年でも請求できます。

 

こうした知識が身につくのが楽しいです。

 

残業代請求の時効は2年間|時効の例外と中断させる方法|厳選 労働問題弁護士ナビがわかりやすいですので、興味のある方はご参照ください。

テストを兼ねた記事

スタッフAです。先ほどの記事で公式に案内されたように、これから個別に執筆者名を入れて記事を書いていくことに決めました。そのテストを兼ねた記事です。

 

ということからもわかりますように、私スタッフAは事務担当者です。これからも事務的なことを書くことが多くなるかなと思っております。

これからブログの運営方針を変更します

これまでこのブログではユニオンぼちぼち名義で公式情報をお伝えしてきました。これからは執筆者ごとにユーザー名を分けて記事を投稿していきます。そこには各執筆者の個人的な見解なども含まれることをご了承ください。ユニオンぼちぼちの中の人の様子が見えたほうがよいだろうという判断です。

 

それでは今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。